◯バラエティーはドラマ
バラエティーでは、いじられる芸人には不快でなく、
おいしいのですから、問題ないのです。
売れたいとか仕事が欲しいときに、自分の好むような仕事ばかりができるわけではないのです。この辺でハラスメントと微妙な関係になりますが。
自分の力をつけていくことを考え、何事も芸の肥やしにしていくようなポジティブさも必要です。
それは本人の問題で、まわりが、とやかく気遣って言うことではないでしょう。
どんな機会でもそれを得ては自分を試し、そのなかでしか、他人の認める自分の価値、才能、個性など見つける術はないでしょう。そして、それが苦しく大変なのは、力をつけるための代償です。
あらゆるマイナスの感情が否定されては、何らクリエイティブなものもできないでしょう。
そんなことよりは、馴れ合いになって、芸の質が低下することを避けなくてはならないのです。
お笑いに限らず、出演者が、平等に公平に出番が割り当てられたような出し物に、誰が魅了されるでしょうか。
◯非常事態と芸能
今回のコロナ禍では、アーティストやその興行関係者は、最大の影響を受けました。
なんせ、「声を出すな、集まるなー」ですから。
中止に追い込まれ、やむをえず、助成金、補助金、給付金でしのいでいる人も多数です。
収まってきたときには、そういう援助を目当てに、公演を急遽、企てたところも多々、ありました。
そういうときは、出演者は、実力ではなく均等に時間や順番を割り当てられることが多いのです。
平時に非常時を演じるのでなく、非常時に演じるので、舞台の質の高さでなく、みんなで力を合わせている雰囲気が求められるのでしょう。
どのように演じられているのかは問われず、演じられていること自体が、賞賛されるのです。
でも、お客さんはともかく、演者側は、そこに甘んじてはならないはずです。
非常時こそ死に物狂いの作品、名演が、とはならないのでしょうか。
想定外のことであったにしろ、自粛とお願いされたくらいで、
非常時こその、芸、祭、宗教、神社、寺、芸人、アーティスト、、
もっとも存在意義が問われるのに、何を成し得たのでしょうか。
自省も含めて、考えていかなくては、と思います。
河原乞食が芸でなく、施しを受ける、なら、それは、芸で返していくしかありません。
先日、有名なお寺のお坊さんが、花見客の行列整理をして、3種類のチケットを捌いたり、敷地内で飲食や陶器即売などに、汗を流していました。
落ち着いたら、静かな境内に戻してほしいと思います。本業に汗を流してほしいと思います。
芸能や文化の力は、根づいているのでなく、根無草のようになっているのかと、感じることが多くなりました。
サービス業でもありますから、お客をもてなすのは当然です。
でも、そのやり方が接客業のノウハウになってきているのです。お客もそこで求めるからだと思います。
そのうち、お寺に参拝にいくと、「いらっしゃいませ」となるのでしょうか。
芸人はいなくなり、今の配膳ロボットみたいのが進化して、芝居をするのでしょうか。
日常の感覚を芸に持ち込んでは、非日常である芸は滅びるのです。
テレビは、お茶の間感覚でみますが、ドラマ番組は、ドラマツルギー、お笑い芸もバラエティーといえ、ドラマ、私にはそうあって欲しいのです。