◯正義と愛からのスパイラル
教会などの不祥事もいろいろと明らかになって、「信仰深いと善良」という考え方も、通じなくなってきました。牧師も僧も、皆、人間なのです。
損得でやっているなら損するならとやめることもできます。しかし、愛とか正義のためになってくると、それができなくなってしまうのです。命をかけての信念となるとなおさらです。
愛するものを守るために、愛するものにとってよくないものを滅ぼそうとして、争いに発展することが多いのです。
なんであれ、相手をよくない、悪い人だと決めつけると、排除しようとなります。
すると、排除する人の方も悪い人だということで、逆に排除しようとして、スパイラルが続いていくのです。その循環から、抜け出すことが必要です。
相手への愛が、いとも簡単に虐待に変わっていくことを私たちは学んできたのです。
国も共同体も、突き詰めたら、同じことです。人間の組織なのですから。
◯ネガティブな感情と怨恨の体質
人とのつながりを常にうまくしようと、人間関係を守ろうとするわけです。すると自分から離れていったり、そのコミュニティーに貢献しないことは、許されないとなります。
日本人に限りませんが、真面目で協調性が高すぎると、いい加減にモノゴトに対することができません。
人には、自分が損してでも一矢むくいようとするような逆恨みの気持ちがあるものです。自分が不当な扱いを受けるのであれば、悔しくて相手も同じようにしたいとなります。
一方、いくら不公平であっても、相手を利して相手が喜べば満足という人もいるわけです。過去の因縁を流し、寛容に振る舞える人もいるのです。
とはいえ、その将来を考えたときにどうなるのかは、一概に言えない複雑な問題です。
◯妬みと嫉妬の先に
妬みは、自分よりよいものを持ってる人に対して、それをうらやむことです。
それに対し、嫉妬は、自分が持っているものを奪われないようにしようという思いです。
これらがあっても、自分がよりよくなろうとポジティブな方向に感情を解消する人もいれば、ネガティブに相手を引きずり落とそうとする人もいます。
相手の優位を認めて、それが憧れになる場合もあります。この辺は、微妙な境目です。
◯メシウマ
「他人の不幸で、今日も飯がうまい」というのをメシウマといいます。
誰かが優位なときに、それを自分たちと同じかそれ以下に引きずり下ろすことは、喜びを感じるものです。いじめなどの構造もこういう気持ちに起因することが多いのです。
これは目立つ人や異質の人に対しても使われます。同調圧力の強いところでは、異なること、目立つことをすると排除されることが多いからです。それどころか、そういう人たちを引きずり下ろすことを社会正義と考える人も出てくるのです。
なんか、人間の悪い面ばかりを並べてしまいました。私の身近で何かあったわけではありません。そういうときはいくらでもありますが、そういうときには書きません。ここんとこ、比較的、穏やかなんで、まとめてみたんでしょう。ウクライナ情勢も関係ありそうです。
同じ事柄から生ずる感情でも、自分にプラスに活かすように切り替えていきましょう。
ってなことで、、、。