fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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迫りくる死 石原慎太郎氏の絶筆

◯光陰は百代の過客なり

150年ほど前の写真を見ると、そこに写っている人たちは、大人も子供も、すでに人生を終えています。120年ほど前の映像で動き回っている、すごく多くの人たち、群衆、そのとき生まれたばかりの赤ん坊も、もう誰一人、この世にいないのです。

今、世界に溢れかえっている人々もまた皆、あと50年もしたら大人は死んで、100年たったらほぼ皆、死んでいるのです。例外はないのです。

 

まあ、50代あたりを過ぎてくると、あまり年齢の順もなく、身近に死が迫ってきているわけです。迫りくる死との折り合いをどのようにつけていくかは、人生最大の難問です。

 

孤独死

孤独死という言葉には、なんとなく馴染めないでいました。

孤独死がよくないとか、かわいそうだとか、そういうことではなく、どんなに多くの人や家族に見守られて死んでも、やはり、人は孤独に死ぬ、と思うからです。

 

死は、誰にでも必ず来るものでありながら、どういう状況で、どのように死ぬのか、誰もわかっていないのです。一度であって永遠、命日として刻まれるだけなのです。

 

作家や俳優は、死というテーマで疑似体験を積みます。

死と生は永遠のテーマです。アーティストで取り上げない人はいないでしょう。

そして、我々も齢をとっていくにつれ、祖父母や両親、あるいは親しい人との別れで、現実の死を間近に接していきます。

といっても、どれ1つとして同じではない、さまざまな死を。

といっても、それは他人の死であり、自分の死の経験ではないのです。

 

令和3年10月19日、「あと3ヶ月」と、石原慎太郎氏は、医師から余命を宣言されます。そこで、絶筆となる文章を書きます。

 

、、、「太陽の季節」なる小説でいささか世に名を馳せた私が己の季節の終わりに関して駄文を弄している今、美空ひばりの世に軽いショックを与えた最初のロックの文句ではないが「いつかは沈む太陽だから」こそ、あくまでもこれまで私が比類ない私と言う歪な人間として生きてきた事を消しても消えぬ記録として、私として全く終りの寸前に私の死はあくまでも私自身のものであり誰にもどう奪われるものでありはしない。私は誰はばかりもなく完璧に死んでみせると言う事だ。、、、

 

前後を省きましたが、最後に、アンドレ・マルローの作品から引いて。

『死、そんなものありはしない。ただこの俺だけが死んでいくのだ』

と。

 

そういえば寂聴さんが、震災のときに夫をなくした奥さんにかけた言葉がありました。

誰でも1人で死んでいく、死んでいくときは1人、

そのような意味のお説教でした。その寂聴さんも亡くなりました。昨年11/9

 

余談ですが、この原稿と彼の芥川賞が載った「文芸春秋」の4月号は、重版が決定したそうです。死してなお、ですね。その後、芥川賞が作家の登竜門になったのも、その選考委員を刺激ないからとやめたのも、彼ゆえでありました。