◯人権という正義
大きな変革期には、その風潮に乗る人ばかりが同じようなことを言って、それをおかしい、行き過ぎ、疑問と思う人が、この国では、本音では語らず黙ることが多くなります。
コメンテーターが、「事実がわからないから」というとんでもない理由でコメントしないようなことが起きるのも異様です。事実など、そう簡単にわからないし、報道されたところで真実かわからない、自分で調べた人でなければ、どこまで本当かさえ分かるものではないのです。
こうした傾向が強まったのは、SNSの発達です。まさにITネットワーク社会だからでしょう。思いついたことをすぐに発言できるし、伝えられる。それは、すぐに広がるし、取り消したくとも記録され、永遠に残る、しかも断片、ひとフレーズだけが一人歩きし、都合のよいように使われるのです。
週刊誌やワイドショーの見出しのように、あたかも事実のように、印象操作に使われるのです。
まだ、かつてのように、週刊誌同士で、対立構造があった頃の方が、健全です。
ということで、コメンテーターだけでなく、オピニオンリーダーまで、
嫌われること、叩かれること、面倒になることを避けることが、第一優先になるのです。
それは、決してよいことではありません。とても危険なことです。
弱いものや人権への配慮も、その傾向が強くなります。
ある意味で、言論の圧殺、多様性の排除になりかねません。
そのなかから、いきなりの暴力、暴徒が出ないかと懸念されます。
清く正しく美しくの元、より大きな犯罪、
いや、合法的な人権侵害が起きている例は、少なくないのです。