◯傷つくことの排除 キャンセルカルチャー
ここのところ、ちょうど4年前の東京五輪組織委の件で、私の感じた違和感が、さらに拡大している感じです。川端祐一郎氏の論説で指摘しておきます。
<マスメディア報道の大勢は、森発言の性質を単に「女性蔑視」の四文字でひと括りにしたもので、それ以上の踏み込んだ論評はほとんど見られなかった。そして、「だから辞任すべきである」と進退に直結させた物言いが何の疑いもなく流布されてきたのだが、その論理には小さくない飛躍があった。また、件の発言は会議中のものとはいえ雑談めいた文脈における与太話に過ぎないもので、そもそも大真面目に「問題視」するのが相応しかったのかも疑問である。(中略)
第一に、それが建前に過ぎないのだとしても、森氏は少なくとも半分は女を褒めながら発言しているのであって、それを「女性蔑視」と簡単に形容して済ますのはいかにも雑な語法である。(中略)
第二に、「蔑視」それ自体が大罪であるかのように扱われていることにも、疑念を持たざるを得ない。そもそも私は、「女ってやつは……」「男なんて……」と男女互いに少々蔑視しあっているぐらいのほうが笑いも絶えなくてよいと思うのだが、とにかく現代人は自尊心が傷つくことを恐れ、またそれ以上に「人を傷つける人」と見られることを恐れているので、迂闊に他人をからかうこともできなくなってしまった。
とりわけこのインターネット社会にあっては、「私、傷つきました」という小さな個人の訴えに大きな注意が向けられがちである。
これは(第四波と言われる)現代のフェミニズム運動の特徴で、日本に限ったことでもなく、例えば国際的なフェミニスト団体の宣伝パンフレットを見れば、主要な目標の3番目か4番目には「マイクロアグレッション(日常の中で何気なくなされる不愉快な言動)との闘い」が位置づけられている。ほとんど悪気がなさそうな森発言も、言わばマイクロアグレッションの一種だろう。
日々の生活が「アグレッション」(不当な侵害)にあふれているのは事実で、その撲滅を目指す志は、上品で結構なことだと思えなくもない。しかし人間が、アグレッションの消えた世界を生きたいのかというと、そう単純でもないはずだ。(中略)
「いじめっ子のジャイアンが大冒険のただ中で示す勇気と友情」のようなものに我々は感心するのであって、登場人物がみな出来杉君のようであることを期待してなどいないのだ。
「アグレッションの効用」をわざわざ讃える必要はない。私が言いたいのは、誰しも傷を負うことは避けたいと願う一方で、傷の消えた世界からは生の充実も失われるのだという逆説を、受け入れざるを得ないということだ。「インフォーマル」で「マイクロ」な侵害行為を減らす努力はそれ自体結構なことだが、その撲滅を社会運動の目標にまで掲げてしまう人々の人間観や社会観は、あまりに薄っぺらではないか。(中略)
第三に、控えめに偏見を披瀝したに過ぎない老人の言葉尻をとらえ、マスメディアを焚き付けて要職から引きずり下ろす反差別運動のあり方も、相当にアグレッシブ(攻撃的)だと指摘しておかねばならない。最近は「キャンセル・カルチャー」と呼ばれているらしいが、人民裁判でも集団リンチでも何でもよい。いずれにしても、衆を頼んで要人を吊るし上げる行為は、女性差別や人種差別に負けず劣らず野卑な振る舞いであって、リベラルを自認する人々にも啓蒙は行き届いていなかったということの証左に他ならないのだ。(中略)
昭和的封建遺制への嫌悪感は令和の文化のあり方を構想する上で避けては通れない問題で、ひとまず粗野でも構わないから、率直な言葉で表現する努力が必要である。(中略)
「差別」「人権」「平等」などの手垢にまみれた概念を振り回すのは、言わば誤魔化しに過ぎないのであって、リベラルな現代人は「要するに昭和臭いジジイどもが嫌いなのだ」ということをはっきりさせた上で、どこがどう嫌いであるかを語ったほうがよいのではないだろうか。#川端祐一郎「蜃気楼との戯れ――森喜朗バッシングの不明瞭な論理 2021/3クライテリオン」より>
#出木杉 英才<藤子・F・不二雄の漫画作品『ドラえもん』に登場する架空の人物。
野比のび太のクラスメイト。学業優秀でスポーツ万能、かつ誠実で容姿端麗な優等生である。のび太は、日頃から彼に強い嫉妬心を向けており、源静香が彼に少なからぬ好意を寄せていることも快く思っていない。成績はオール5、趣味は、料理、写生、映画鑑賞、絵画鑑賞、野球、サッカー、交換日記、昆虫観察、天体観測、読書、演劇、文通、と幅広い。>