声は、生理的な発声、発音、発話から先に叫び、感情を伝える喜怒哀楽として生じ、ことばを得たのはその後だと、私は思っています。親しい中にことばは要らず、声だけのやり取りでよいということは触れてきました。表情や身振りが一目でわかるのに対し、音声は、聞くもので、目でみるものと分担しつつも相乗効果をもたらしています。
農業化から工業化、そして情報化となるなかで、変わっていったのは、肉体と精神の劣化、五感での視覚優位が他の感覚の劣化で極まりつつあることです。技術の発達で、3次元のスキャニングから3Dプリンターまでできる一方で、音声が人間の肉声を離れて、音声、動画技術の発達で人工言語まででき、読み上げやヴォーカロイドまで登場しました。楽器がPCで賄われるようになった。ここいらは、ますます発達していくでしょう。
メディアのネット配信と、テキストベースから、動画が個人で扱えるようになるのに20年もかかっていないわけです。一般の人への普及において、これは印刷の革命よりも大きな変化かもしれません。
ただし、個人の才能、フィジカルの能力においては、作業員や戦士がロボットに置き換わったのと同じく、劣化しました。これは昔の基準でみたらということですが、この変容をどのように捉えるのかは、簡単に言えません。
ネットがあってもラジオ、新聞、テレビは生き残るでしょう。しかし、一方で、タイプライター、写植のようにナレーション、声優、朗読、翻訳や通訳の仕事の多くはAIに替わられるに違いありません。現に、業界としてはボーダーレスになって、今の日本でもっとも強いのはMCの務まるお笑い芸人となっています。そこに声の力が、ものをいっているから、私はヴォイトレの必要を説くことができるのです。
さらに、スピリチュアルな流れ、これも声の波動や共鳴と結びついていて、ヒーリングに使われています。元より、歌や声は、宗教、医療、芸術と分かちがたく結びついていたのです。すると、ビックデータで世界の情報システムを握った人が、声をもっと大きくして人々に働きかけると、声が鍛えられていない心身の人は、自ずと盲従してしまうのでは、という危惧を感じます。
私は、呼吸も声も、他の人を手助けすることが支配してしまうことになることに極力気を付けるべきだと思います。ブラック企業や居酒屋、ラーメン店の大声の挨拶や、最近の日本の店員の唱和に、声を大きくするほど個人の声の聞こえない胡散臭さを感じるのです。音声を流すのもどうかと思いますが、声を出せばよいというものではない。しかも、出させて、鈍化させているのです。
しかし、かつて学校やクラブでそうであったことを思い出すと、ただ幼いだけとも思うのです。日本の社会の未熟さ、それが一種の洗脳なのか、社会人となるための殻を破る儀式なのかはわかりませんから、賛否もないのですが…。
社会的役割を演じるのも、役者として生きるのも同じですから、そこでぐだぐだ悩んで欲しくないのですが、乱暴な声の扱いは不快です。でも、元気に声を上げる時間も場所もないなら、それも一つの機会と思えなくもないわけです。静かな日本で、本音も口に出せず、ときおり、ただ一フレーズだけのくり返しのアピールに、簡単に動かされてしまう国になってしまったことは、この先、困ったことだというだけでは、ですまない気がするのです。