fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

表現、創作、スピーチ、雑談のネタの欲しい人、今の自分と社会・世界を結びつけたい人、考えを深めたい人に

「不祥事続きのオリンピックに学ぶこと」

開幕直前、20〜25年ほど前の不祥事について、急遽、責任を取り、役職を降ろされたり辞したりする人が出ました。世論や組織が彼らを一方的に断罪したことに、庇うつもりはありません。ただ、いろんな意味で、いつも本当の問題が隠されて終わることに違和感が拭えないのです。

 

当時、その周りでは、それに近いことをみんな見て見ぬ振りをしていたのです。代表してその人が断罪されて終わるなら、他のものは救済された構図となります。

ちょうど戦後、日本人が、A級戦犯に、戦争の罪を全てかぶせ、あるいはドイツ国民がナチスに罪をかぶせて、何とか心の平静を保つ、そこであったことは思い出さず語らずに墓場に持っていったようなものです。これについては、世界中の、どの民族もそうした負の歴史を持っています。この100年の中でも、日本なんか問題にならないほど、ひどいものです。

 

かつて私たちが生きていた世界、そこで差別を取り巻く状況は、今ほど厳しくなく、みてもいなかったから、そういういじめが武勇伝のようにメディアに載ったし、発行してもそのままだったわけです。小山田さんの件では、話を煽った取材者がいて、しかも編集長であったのが驚き、とも言われますが、その雑誌をとりまく世間も、ひいては私たちもそうだったのです。

もちろん、そのときは、知らなかった、読んでなかった、知っていたら、という人が多数なのでしょう。

差別に今ほどの感覚を持っていた人は、こういう雑誌やこういうページを当時、読まなかったと思います。しかし、編集長が掲載に迷わなかったほど、いじめもその自慢話も許容されていた状況だったのです。この2人を異常者で片付けるのでは、あまりに短絡的です。

彼は、20代半ばになっても、過去のいじめと向き合い、反省も補償もしていないで放言した、ということで、炎上もしたというのですが、彼以外にいじめをした覚えのある人は皆、その後、後ろめたく反省していたのでしょうか。ほとんどの人は、彼と編集長と同じ程度の認識だったのではないでしょうか。なら自らを恥じこそすれ、非難できる資格はありえません。

 

今回、彼らが名誉ある重要なポジションを任されたがために、それを引きずり落とし、排除するというところに、正義感からの同調圧力が働いたようです。

 

だからよい、許されるといっているのではありません。

ただ、その時代状況を切り離して、今の時点で断罪することは、どうなのでしょう。今となれば、一個人の問題で片付けるのでなく、その時代を共に生きていた日本人としてしっかりと受け止め、考えることが大切なのではないでしょうか。

彼は愚鈍に証拠を残した、同じようなことをして忘れている人もいるのです。

あそこまでひどいことはしていない、というコメントを出す人には、ひどいか、どうかは、いじめられた側の感じることなので、免罪になりません。被害者に気づいていない加害者がどれだけいるのか、そういうことだから、難しいのです。

 

こういうことで、差別と言うことに、皆が敏感になり、いじめなどが起きにくくなる点は、よいことでしょう。しかし、彼の子供や家族が誹謗、中傷に晒されている、となると、もはや、腹いせとしても、愚かすぎます。このことで何を学んでいるのでしょう。

問題はここからでしょう。

 

もう一つは、それを取り巻く組織の問題です。

責任を持って人選し、選んだ以上、責任をとって守るというような気概もない組織のリーダーたちの対応の情けなさ、何かあれば、辞めさせたらよいし辞めたら済むというのでは、知恵も分別もないのです。辞めたらそれでよいのでしょうか。

こんなことが続くと、医療訴訟を起こされるのを恐れて、難しい治療に挑まなかったり緊急手術をしなかったり患者を引き受けなかったり医者になろうとしなかったりする人が増えるようなことと同じことが、起こりかねないとも思うのです。「責任は私にあります」と、言いながら責任をとらない、辞めもしないし、ペナルティーも改善策さえ提示しない、それで済んでしまうことに、誰も驚かなくなりました。マスメディアも広告代理店も、もはや体制側との馴れ合い、事を荒立てないことだけに動きます。

 

オリンピックの理念ということで述べられるにも、ほとんどの国民が望まなくなってしまったような今回のオリンピック、国際的な声ばかり気にして右往左往するみっともなさ、組織委員会など運営側のいろんな意味での不祥事や利権の寡占、IOC委員会の接待などの無駄な費用など、こんなに炙り出されたのに、メディアや私たちはどこに目を向けているのでしょう。

 

バッハも会長なら、高級ホテルをキャンセルして、コロナ禍や復興震災といっている、その支援のほうに回すようにするくらいできないのでしょうか。

 

一つの事象を自分の内面に照らし合わせず、外部の誰かに責任を負わせて断罪する、そして、解決したことにする、こういうことでは、これから、どのようなことが起こるのか、心配です。

歴史は繰り返されていくでしょう、それを食い止めるチャンスにもなる災害や不祥事を、菅首相式の事なかれ主義でしか対応できなくなったら、もはや悲劇でしかありません。