校則の問題につなぎます。
<連日猛暑が続く中、生徒になるべく水を飲ませないかのようなルールを続ける中学校がある。埼玉県の桶川市立桶川中学校は今春、授業中やテスト中は水筒の水を「原則飲まないことをマナーとする」という校則を決めた。
保護者から熱中症の危険性を指摘され、「授業で教師が話している間は飲まない」などと指導を変えたが、生徒からは「どのタイミングで飲んでいいのか分からない」「やっぱり飲めない」と困惑の声が上がる。>(7/5東京新聞 出田阿生、藤原哲也)
<今回の取材のきっかけは、去年7月隣の山形県で部活動から帰宅途中の中学生が熱中症の疑いで死亡したという事案が起きた時に、「子どもが学ぶ場で命を失うことはあってはならない」と強く感じたことでした。(中略)
福島県教育委員会がことし6月にまとめた学校での熱中症対策のガイドライン。
この中に次のような記載が盛り込まれました。
「児童生徒自身の命を守るための主体的な行動が、校則等により不要に制限されている場合には、直ちに見直しを図るなど、発達段階に応じた柔軟な対応を」(NHK福島放送7/18)>
さて、義務教育の現場の中学校と大人の社会とは、違うこととは思いますが、
それにしても、校則と原則と常識について、もう少し柔軟に対処できないものかと
思うばかりです。
私は、教育サイド、学校側や教育委員会だけでなく、
PTA、生徒の保護者や生徒自身に対しても、思うのです。
原則で禁じられても、生命が危機のときは、
原則より、救命手段、つまり、補水が優先されるのは、いうまでもないことです。
だから、原則としてはダメ、もありでしょう。
中学生だから、そこが判断できない、
いや、高齢者の方が判断は遅れがちでしょう。
ここは、熱中症ゆえに、わかりにくいところですが。
まあ、校則が何のためにあるかでしょう。
授業中がもぐもぐタイムでは、授業によっては進行に支障をきたすでしょう。
先生が授業をやりにくいと、まじめな生徒に不利益になるのです。
ルールは、シンプルに定め、ただ、その本意を共有すること。
書かれたことばでなく、その本質で現実の行動を判断することです。
原理ということです。
こういう場合に、してはいけない、では、
そこに書かれていないことの方が多いのですから、
ずっと自由なはずです。
が、想像力が働かないのです。
そういう利発な発想があっても、屁理屈と言われて圧殺されるからです。
既得権益をもつ権威者とその取り巻きの同調圧力によって、です。
本質で判断して、行動に応用することが学べていないのです。
ことなかれ主義、保守主義だからです。
教育の現場とは、
未知なる事態に、最良の答えを出して行動できる
自立した人間を育てることでしょうに。
こういうケースは、とてもよい機会なのに、
もったいないことです。