◯性的と性差別的の違い
オーストラリアで「H&M」の広告が、女児の性的対象化につながる」という批判で、削除・謝罪する騒動となっていました。
<SNSユーザー向け広告。通学バスを模したピンク色の空間に制服姿の少女2人が立ち、振り返って「Make those heads turn in H&M’s Back to School fashion(H&Mの『バック・トゥー・スクールファッション』で注目を集めよう)」( バック・トゥー・スクールは新学期)
作家のメリンダ・タンカード・リースト氏は、Xで広告を批判。
「私が学校で関わる子供たちの多くは自分の外見に不必要な注目を集めたがっていない」
「なぜ少女が自分の外見や体、スタイルに注目を集めるべきだという考えを煽ろうとするのか」という見解を示しました。
他にも「女児の性的対象化につながる」
「制服姿で振り向かせようというニュアンスがある」
「ルッキズムの意識を植え付けてしまう」といった意見。>
これでみると、日本の広告、アニメや映画、ドラマはどうなるのでしょう。
広告と作品とは、表現の規制において、どこで区別されるのでしょう。
この例で、
東北学院大学の小宮友根准教授(社会学・ジェンダー論)の意見をもとに、
論点のみ掲げてみます。
<児童への性的虐待、女性がより性的対象にされやすい現状への問題意識。
広告は、おしゃれをしようという女の子の主体性が描かれているともとれるが、
広告には「どういう価値観を表現しているのか」が問われる。
「自身の性的魅力を気にする主体」として女児を描くことが、性差別や児童虐待との関係でどのように見えるのかが問われる。
ジェンダーやフェミニズムに関する議論で言えば、「性的に」描かれることが問題なのではなく「性差別的に」描かれることの問題。
「ステレオタイプな表現がなされていないか」という観点。
「公的な空間に性的な表現が出てきてはいけない」という主張は、性差別とは別、
フェミニズムの議論は、そうした主張に反対をしてきている。むしろ、女性差別的ではない愛や性愛の描き方は必要で、性的マイノリティーの人たちの権利として多様な愛や性愛の描き方が求められる。>
日本では、この区別がなされているとは、思えないし、
今後、より慎重に考える必要がありそうです。fukugen.hateblo.jp