「ゴジラ−1.0」#、特攻の生き残りが、主人公という、つまり、敗戦になっても、終わらせられなかった戦争を終わらせること、それがゴジラに向けられました。
アメリカでも、大ヒットしているそうです。アメリカでは、「GODZILLA MINUS ONE」。今の日本では、ブルース・ウィルスの「アルマゲドン」のような特攻での死はタブー、まして核爆弾使用などは、とんでもないのです。しかし、自由であるべき表現でさえ、そこに縛られている、日本の戦争、いや、戦後は、終わっていないといえます。
今回は、米軍も自衛隊、警察予備隊も出ない設定で、結果として、こうしたことをうまく回避したストーリーでした。
戦後のバラック小屋の日本の都市の状況、そこにゴジラというマイナスワン、
いや、ゴジラの銀座襲撃を大画面、大音響で体験して、ウクライナやガザ、能登半島の惨状に思いを馳せるのもよいかと思います。
「永遠のゼロ」や「男たちの大和」と比べてみるのもよいでしょう。
1954年の第一作めの「ゴジラ」は、当時の水爆実験などに対するアンチテーゼでした。第五福竜丸の被曝の年でした。
その映画の最後は、新兵器の開発と使用の責任を自ら、とった山根博士のセリフ、
「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたらあのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない」
この第一作を超えることはもう難しいでしょうが、こうしてオマージュして新たに作られるゴジラ映画を機に、前作から見る人が増えるなら、とてもよいことでしょう。
私としては、今作品のゴジラ、強さを強調したいのはわかりますが、やや恐竜がかっていて、キモかった、美しくなかった。
で、キモつながりで、、ざーとらしいですが、、、。
#「ゴジラ−1.0」
<日本が生んだ特撮怪獣映画「ゴジラ」の生誕70周年記念作品で、日本で製作された実写のゴジラ映画としては通算30作目。>
◯おじさんのキモさ
おじさんが、キモいと言われるのは、その無神経さ、いや無感覚さですから、そう簡単に変わるわけではないのです。
結局、時代や相手が、どうであろうとも、育ってきた自分の価値観とか尺度は、そう簡単に変えられないからです。
特に、一つのところで一つの価値観で育って、そのまま、定年までエスカレーターで行ってしまうと。
このあたり、その価値観を変えることの大変さは、定年後を主題にしたドラマでよく描かれています。たとえば、内館牧子さんの「終わった人」など。
#「終わった人」
#ゴジラ