カップルだらけで桜も散り始めた京都をでて、神戸は、ネスタリゾート。アンバサダーは、原辰徳氏とイ・ボミ選手。体験型リゾートということで、いろんなアトラクションからイルミネーション、温泉まで、あり。修学旅行生が泊まっていましたが、イルミネーション以外では、接しなくて済みました。中での移動に距離があるので、車でくるほうがよいです。または、電動カートの使える部屋に泊まるか、あと、強風に弱いアトラクションがあるので、天気も不安材料です。
◯グローバルにまずい日本語
近畿日本ツーリストは、海外では近鉄インターナショナルエクスプレスで、近畿とは名乗りません。近畿大学もキンダイユニバーシティーに2016年、変更しました。
国際化の時代に対応したわけです。キンキでは、誤解されます。KINKYは、変態でもかなりアブノーマルな意味合いですね。
KinKi Kidsは、日本市場しかみていないのでしょうか。Sexy Zoneは、中国で、性感帯と訳されたとか。
カツオ、河野、もしもし、などは、ヨーロッパのとある国々では、いわぬように注意!と聞いたことがあります。
◯ロシアと宝塚
1914年、宝塚唱歌隊が第一回目の公演。
先行していた三越の少年音楽隊に少女歌劇で張り合って誕生しました。
1920年代からは、モンパリやパリゼットが、ヒットします。フランスに憧れる女性だけでなく、初めは男性の客も多かったそうです。演出はフランス帰りの演出家で、振り付けやオーケストラの指揮は、ロシア革命亡命芸術家たちが当たっていました。ロマノフ王朝の影響があったのです。
大阪の富豪たちは、当時、阪神間、六甲山麓や神戸に住み着き、数奇者として、茶道、生花、邦楽、日本舞踊の師匠を招く一方で、洋風の衣食住、ダンス、テニス、ゴルフなどに興じました。この頃は、大阪の方が、「大阪洋行」と言われるくらい、欧風化されていたそうです。
ロシア人たちは、そこに音楽やバレエを伝えました。当時、日本で子供の音楽教育をできるほど豊かな家庭は、この地くらいしかなかったからです。
関西でヒットしたパルナス製菓のピロシキのCMソングは、「パルナス、パルナス、モスクワの味、、」で、中村メイコさんとボニージャックスの歌でした。ダーク・ダックスとともにロシア民謡を普及させたコーラスグループです。うたごえ喫茶でも同じみでした。そこは労働運動による左翼の力の影響もありました。労音#など、お世話になりましたか。
第二次大戦でハルビンから引き上げた加藤登紀子さんなどは、こちらの流れの方でしょう。
◯日本人一億総中流&芸術家と差別
高度経済成長期は、皆が中流を目指した時代でした。女子も多くはピアノを習い、家にピアノを買っていたのです。ヤマハ、カワイが大躍進です。うちにもピアノや世界児童文学全集や図鑑などがありました。大人には、大百科事典や美術全集などもよく売れたのです。レコード、ステレオ、、。
就職しても寿退社で専業主婦になり、子育てを終えたらパートで働くのが女性のキャリアでした。良家で音大出身というのは、ブランドだったのです。大学出の女性は嫁入り先がないとか、女性は大学に行かないほうがよいとか、今も東大卒の女性が悩んでるようなことが、この頃には、もっとひどく偏見としてありました。
能力の高い女性は、職場でも家庭でも受け入られにくかったわけです。
今だに日本のガラスの壁は厚そうで、最近も、ある女性代議士が、日本はまだガラスの天井までにもいかないと言っていました。でも、男性のなかでも、いろんな差別がまだまだあるのですね。
◯世界の潮流と音楽教育
日本の音楽教育は、イエズス会の宣教師からキリスト教の布教で始まりました。
幕末に、西洋音楽が日本に導入されました。
その後、官立の音楽学校によって、音楽教育が行われ、日本にも優れた作曲家などが出てきます。
それは世界の流れでした。パリ音楽院は、フランス革命の最中1795年に設立されました。
それ以降、プラハ、ウィーン、ロンドン、ブリュッセル、ライプツィヒに19世紀前半、
東京音楽学校は1887年の設立でした。
#労音 勤労者音楽協議会は、会員制を基本に運営される日本の音楽鑑賞団体。通称は労音(ろうおん)。1960年代半ばには、192の地域組織が存在し、60万人を超える組織となったが、その後、衰退した。現在では、「勤労者音楽協議会」だけでなく、「音楽鑑賞協会」「音楽鑑賞会」「新音楽協会」「コンサート協会」など、40余りの組織が存在し、会員数万人の全国的なネットワークとして、「全国労音連絡会議」が存在する。(Wikipedia)