fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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母性と父性  ウクライナの「ひまわり」

ウクライナでは、成人男性は、国に残り防衛する義務が課せられています。別れて避難するのは、女性と子供たちです。

ウクライナ南部のヘルソン州で地元の女性が、ロシア兵に詰め寄る動画がアップされました。2/24。女性は「何をしに来た!」と詰問、「ヒマワリの種をポケットに入れてって。あなたたちが死ねば、そこからヒマワリが生えるから」と命がけで抗議したそうです。

映画「ひまわり」は、ウクライナのこの地で撮影されました。1970年です。あれから、半世紀以上経つのに、そうしたドラマが次々と現実に起こっているのでしょう。

強いロシア、大国ロシアを目指すプーチンは、ある面では、父性を代表しています。父性と母性についての考察です。

 

〇母性の国 日本

ドラえもんは何でもやってくれるから、のび太が自立しません。でも、望むことをみんな叶えてくれるツールを出してくれるドラえもんは、誰もが大好きなのです。でも、ただ叶えるのでなく、ツールを出すまでで、のび太が必ずしもうまくいかないところに学びがあるのでしょう。

もともと母性的な性格の強い日本において、戦時には、あまりに突き抜けた父性が強調されました。それが反発を買い、今もそういうものには反動的に過剰反応するように思われます。

お父さんやおじさんの権威が下がっているのは、そういう影響が、世代が変わり、強くなったのでしょう。平和が続いたことには、感謝です。

誰しもやさしい愛で包み込まれるのが好きなのです。

特に日本では、なあなあにまわりに合わせていくと物事がうまくいくと考えるからです。

 

〇公的なもの

となると、国際政治はもとより、教育現場が厳しい状況におかれるのは、わかり切ったことです。

ルールに従ってフェアに断罪するには、合理的な判断が優先するからです。

無限に愛され、まわりがやさしくて何でもやってくれるような対応では、歪みを生んでいくのです。

甘やかされて育った若者が犯罪を犯し、公的な権力に取り押さえられて、初めて社会と向き合い、現実を理解するということは、多かったのではないでしょうか。

 

団塊の世代と父性

政治、戒律、ルール、規律、国家、軍隊、右翼、日の丸に反発、となると団塊の世代です。そして、父性を失ったのも、この世代からです。

なのに結構、根っこの方では、頑なに父性だけでなく男尊女卑に年功序列思想を持っていたりします。戦後の民主主義で、上には自由、平等にふるまいたく思い、下には偉ぶりたいから、で、半ば建前だったのでしょう。

そして、この世代からは、それまで蓄えたものを全て使い、膨大な借金を残し、さらに増やしているのです。

子供の世話にもなりたくない、自分たちの稼いだものは全て自分たちで使う、日本古来の慣例に反し、我儘、強欲な人の多いのです。

でも、全く逆のタイプの人も新しく現れたので、一括りにはできません。

 

〇治世

私は、以前、今、身近な人の幸福を願うのが母性、将来、遠い人たちの幸福を考えるのが父性のように理解していました。

たとえば、いろんな補償や補助は、それを得られる人には幸せなことです。政治家や官僚は、それを出すことによって感謝されても、自分の懐が痛むわけではありません。

ただ国の将来や危急時など、我々が日常の生活のなかでは考えないことを想定して予算編成をし、配分することが求められているわけです。

政府の補償や補助は、我々の懐から出ていくのです。無限に出せるはずがありません。出さずに嫌われても、きちんと筋を通せるのが、真の政治家ということになります。父性がより必要なのです。

 

〇多様性

では、筋とは何か、そんなことさえもわからない世の中になっていることが心配でなりません。

 そこは、父性と母性の違いということではなく、考え方の違いです。父性を否定し、母性だけにしてしまうのは、多様性の喪失といえるのです。

 

とはいえ、多様性とか多次元などということばでは、八方にいい顔をしようとするところがあります。それだけでは、何事も解決できず、決断できなくなるのです。

 

石原慎太郎伊集院静さんなどの本を買う人は、ストレートに父性への欲求でしょう。そこでは、はっきりと、ものを言えるからです。そこは知的な女性からは、好かれないのです。

同じようでありながら、そこをパロディーに使い、フェミニスト的にうまく立ち回っているのが、小林よしのり氏かもしれません。漫画家やお笑い芸人の持つサブカルの強さでしょう。

 

〇対立存在

私は、小学校の高学年から中学校になるにつれて、父とは対立することが多くなりました。とはいえ、自立していたわけではないので、反発しても、言い返せず黙っていました。

そこで何が違うのか、どうして対立するのか、自分はどう正しいのか、相手はどう間違っているのか、それをどう論破すればよいのかを考えるようになりました。

異性の存在が、その人の作品を方向づけたり、決定づけたり、才能を開花させることがあります。ライバルなどの存在もそうかもしれません。私も半分は、その力であったと思いますが、その根本のところを作ったのは、父でした。

自分は違う、自分が自分であり、自分たるものが何かというのが浮き上ってくるのには、明確な別の存在があってぶつかるからこそ、自分の形がはっきりし、自分の思想や表現が確立していったように思うのです。

意味もわからず、父に「封建的だ」と言ったときがあります。母は、父が小さい頃に父親を失っているので、思春期の男の子の接し方に戸惑っているところがあると言っていました。そんなことが理解できるような私ではなかったのです。

その対立してきた自我が、正しかったと思うわけでもありません。幼かったと思うことが多々、あります。今でも、あの時代の父を超えたとは思えません。

 

対立するような存在から学ばされることは、自分に賛同してくれる人たちからよりもずっと多いのです。そういう存在を大切にしなくてはなりません。