fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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「成長するために『原則』を学ぶ」 2013/03/25

○向上心

 

1、情報過剰とネットでの偏狭化

2、 創造より選択優先

といった育ちの中で、個性と自由も、身勝手に都合よく捉えられ

1、みんなでサボれば怖くない

2、わからないものを抱え続けられない

という傾向が強くなった気がいたします。結果として「すぐに決めつけないで保留にしておくこと」ができなくなってきています。困ったことだと思います。

 

 自分がわからないものについては、すぐに「パスしたり、無視したり、排斥する」のでなく、「気にし続ける。できるだけ関心を持ち続けること」という姿勢が大切です。というか、それが成長というものの動機なのです。

 すぐにネットで調べて、そこに答えがある。そこから「選べる」のというのでなく、そこに「疑い」を持つことが大切なのです。

 「疑問をもち、先送りする」からこそ、進歩するのです。つまり、自分と何かしら自分以上のものの差を漠然と予知する力をもつ、そして、それを感じて、そのギャップを詰める努力をしていくことが、向上心であり、学びの本領なのです。そして、これこそが人間と動物との最大の違いです。動物はものを見たら「逃げる」か「戦うか」です。即決し、行動します。しかし、人間は、明日を考え悩むことができます。言うまでもなく、「ことば」をもつからです。

 

○知ろうとすること

 

 「知らないこと」は、自分と関係ないのではありません。ただ、あまりにたくさんの情報があるので、切り捨てる。知るのに疲れて、自分を守るために鈍感になるのかもしれません。

 世界はわからないものだらけです。私も学ぶほどに知っているものが増えるのに比例して、その何倍も知らないものが増えます。ネットは、知らないものの大海原です。ものごとをすべて知ることはできません。しかし、それと最初から知ろうとしないのとは違います。

 また、一人ひとりの目にはものごとは違って見えます。ですから、ここで自分が「知る」というのは、現実には、森羅万象のことでなく、自分と他人との関わりのなかでのことが中心になってきます。

 現実に関わるものは、その人の関心によって大きく異なってきます。自分中心でしか見ないと自分以外のものは軽視され、無視されます。すると、ますます自分の気持ちや感じ方、判断が最優先されます。

 

 悪いことをしていても、それを悪いと感じなければ、人から指摘されても形はともかく、心中では謝りません。たしかに、悪いことというのを誰が決めるのかというのもありますが、社会の一環として「法で決まっていることも知らなければ、それを行っても悪や間違いでない」というのは、大人とはいえません。「ものを盗んだら、捕まる」と知っていても、「盗んでも罪と思わない」人もいます。公共マナーあたりになると、大人も見本にならない今では、これも曖昧なものです。

 本当は、ものごとを知るのでなく、その根本にある「原則」を学ぶことが大切なのですが。

 

○学べない

 

 私があるパーティで隣席した若い男性に「事務所にでも遊びにいらしてください」と水を向けたところ、「何か役にたちますか」と言われ、戸惑いつつも、何とか役立つことを23述べ、「それでは是非」と言われたことがあります。「行ったら面白いですか」と言われたこともあります。

 私自身の対応に大きな欠点がなければ、これらは極めて空気の読めない返答だと思います。

 私が若いときに、もしそんな返答を口にしたら、「何言ってやがんだ」「知るか」と一蹴されるか、黙って席を立たれたでしょう。それで、瞬時に相手が不機嫌になったことで、私たちは学べた。

 となると、不快を示さない"やさしい”私、今の大人の方が責められるべきでしょうか。そこで不快を示せば相手は学べたでしょうか。多分、怒りっぽい人だと思われ、この小さな縁を修復不可能なほどに切られたでしょう。だからこそ、私は、とっさにそのように対応したのです。

 それではカウンセラーのように、「こういうときはそういう言い方はよくない」とか「それはないだろう」とか“やさしく”注意するべきだったのでしょうか。もはや、そういうレベルでないとわかりつつ、教える努力をするのか…。そこまで私は相手の先のことを考えて優しくなれず、それがうしろめたくもあり、それゆえ、このことを覚えているのです。

 教えられるのは、信頼関係があってこそ、相手は受け入れるのであり、多分にそこまで学べないで生きてきた人には、「考え方の違い」でくくられるのだと感じます。

 

○選択のまえに

 

 モノあまりのなか、消費者として、「たくさん与えられるなかで、もっとも役立つものを最高のコストパフォーマンスで即時に選ぶ訓練(育ち)をしてきた」人たちに、こういった身を切る学びを伝えるのは難しいことだと思います。

 レッスンの現場でも、今日では、時間という単位でしか受講料をフェアなルールとして決められないのが現状です。

 日本の学校の義務教育(弱者救済教育)は一つの盤上でのゲームに例えられるかもしれません。しかし、大学以上、社会人の勉強やアート、ビジネスの勉強には、盤などありません。

 なぜ、勉強するの。なぜ働くの。なぜ健康でいなくてはいけないの。なぜ文化的な生活を営むの。

 憲法の規定が、義務のように思われるのは、そこでの保証をいかに得るに至ったのかの歴史を学ばないからです。そういう権利を奪われたときの苦難を想像できないからです。自分が苦労して手に入れたものでなく、生まれたときにすでにそこに獲得されていたからでしょう。欲していないのに与えられたものの大切さは失ってみないとわかりません。失われたときへの想像力は、歴史を学ばないとわからないでしょう。勉強によって、それらをある程度イメージによって補うことはできます。「原則」を学ぶとするならです。

 

○答えないという答え

 

 「レッスンを受けたらうまくなりますか」、こういうのは「答えるべき問いでない」と思います。というのはそのまえに、「発するべき問いでない」からです。もちろん、コミュニケーションとしての挨拶というのならOKですが。

 

 無知は、人を増長させます。私もそうでした。大学に入った年に試験を受け忘れ、「レポートを出せ」と言われました。そこで、何十枚かのレポートを書き、出しました。それにも関わらず単位をくれなかったので、私は、その教授に抗議の手紙を出したら、返答がきました。その出だしに「君のような生徒がいるのは驚きです…」とありました。

 私は出すことが単位の条件と思ったのですが、教授はレポートの内容で評価したのです。考えてみればあたりまえです。他の教授の多くが、試験もなくレポートだけで単位をくれたので、私はそのとき思い込んでいたわけです。そのことで、その教授を尊敬するようになりました。そのときの自分の怒りを「幼い」と学んだのです。

 ですから、パーティで一目あった人をどうこうすることはありませんが、研究所では学びにいらっしゃる人に対しては、「答えないという答えもたくさんある」と言っています。私にとって、この分野のことならその人が納得するくらいに適当に応えることは簡単です。でも、だからこそ適当には答えないようにしています。

 

 先のいろんな質問などは、フランス国王ルイ16世の妃マリー・アントワネットが庶民に「パンがなければケーキを食べればいいのに」と言ったという類のものです。私たちは彼女を笑いますが、同じことを自ら常に犯していることを知らなくてはなりません。ギロチン刑に処せられたルイ16世夫妻の罪は、本人たちよりも、それを許容し、学ばせてこなかった周りにもあったといえましょう。

 ですから、私は一世代前の大人のように、一方的に今の若者を怒れません。怒られてもこなかったから、というのもありますが、その時代、その環境に育つと学べないこともあるからです。

 しかし、だから学ばなくてよいということではないのです。だからこそ学ばなくてはいけないのです。学んでも学びきれないことがわかっているときに、学び続けることの方が大変です。そこで少し、私は「やさしく」なって、こういうことを述べているのです。

 昔は20代の若者たちが世の中を変えたと言いますが、知識量としては昔の一生分、一流の知識人よりも今の20代は知るべきことが多いのですから、そうもいかないのも無理がないと思います。だからこそ知識の量でなく、知識との接し方、使い方に重点をおくべきです。つまり、「原則」を学ぶ、これは、当時の若者の方がずっと学べていたように思います。

 

○接し方を学ぶ

 

 相手を安心させるために、安易な答えと知りつつも、メンタル面で弱いこの時代に、形式的な回答を口にせざるをえないときもあります。私もときにはそうしています。これを「教科書的な答え」と言っています。

 マイナスに陥っているときにはゼロに戻す。まずは、心を回復させないと何事も始まらないからです。しかし、本当の答えを得るためには、安易にその答えに飛びつかず、苦悩するところに居続けなくてはならないのです。そのことを教える人が、あまりに少なくなった気がします。

 芸の道は、「己の無力を知る」ところから始まります。そこで師につき、住み込んで身のまわりの世話からのスタートです。つまり、できないことばかりなのを知るからこそ、できることから手伝っていくのです。「師に代われ」といってもできないのですから、そうして少しずつ力がつくのを待つわけです。そして、長年の厳しい修行を経て、ようやく師に認められます。でもこのときも、物事の知識でなく、知識や人の名前でなく、知識との接し方即ち、「原則」を学ぶわけです。

 

 こういう芸道と教育サービス業との問に立たされつつあるのが、今のここの研究所です。

 トレーナーの与える、レッスンという時間や内容を値踏みにくるような人もいます。ですから私たちもうまくその人に合わせた環境や情報という価値を、すぐに提示しなくては、なかなか理解してもらえません。つまり、声という商品、サービス(有用性)が取引されているのです。

 

 設立当初は、研究所の壁のペンキを塗るところから、会報やカリキュラムの作成、スリッパの整理、掃除まで、ここにいらっしゃる人がやっていました。

 物事の成り立っていく、そして衰退していく歴史を伝えることは、大切なことだと思っています。私は、端的に言うなら、スリッパを散らかす人と片付ける人(少なくとも他人に迷惑のかかることをする人と、迷惑のかからないように元に戻す人)の比率で、この推移がわかるように思います。

 皆さんも一人で商売を始めたらわかります。まず、室内の掃除からするでしょう。そういうときにわかるでしょう。しかし、これは家庭や学校で学んでおくべきことなのです。

 

○人を超えたもの

 

 私にとって、レッスンもステージも「不快」なものでした。それはレッスンそのものとかステージのできによるのでなく、あまりにもうまくいかない練習や高望みしすぎて自分の実力との「ギャップ」に気づくことでした。それは、ほとんど環境や人間関係のよしあしを超越していました。しかし、長く続いたのは、そして今、逆の立場で続けているのは、師やお客を超えた何かを、その時間、その場に感じられたからです。今は、レッスンにいらっしゃる方やトレーナーに「ギャップ」を感じても、しごくおだやかにいられるのは、こういうことを経てきたのです。

 私にとって、声を介しての至高の体験というものは、レッスンでなく、ステージで2回だけ(どこかで前述したので略)皮肉なことに、それが私をそこから降ろすことにもなったのですが、それでもこの答えを求め続けることになりました。

答えの出ない世界で、自分の体を超えて他人、もしくは別のものへ、少し高きものを宿し、シェアする。あるいは伝わることで、より大きな力と化していく感覚は、独自のものです。一面では、プロセスでの不快に耐えることによる成就といえるのかもしれません。これを自然に心地よいプロセスとして成立させるには、生まれてからずっと長く接し続けている、というような環境、習慣がいると思います。私がここで述べるのは、そうでなかった人のトレーニングです。ですが、「不快」と述べつつ、「心地よく」もあったのです。

 

 それは、その「不快」がゆるやかに成長させていく、大きな果実をもたらす源であったからです。「成熟させる」というのは、トレーニングの本質のように思います。

 私は「練習が楽しくて仕方ない。トップになるために誰よりもトレーニングしているのが、おもしろい。」というようなことを「本音で言える」一流のアーティストやアスリートたちを知っています。彼らについては、恵まれた人たちで、その「努力が才能」といわれる人たちでも、「才能があることに努力することなどで努力のうちに入らない」とも思っています。将来も結果も才能も見えないのに、もくもくと努力している人たちの味方をしたいというのが、研究所です。

 

○不自然を自然に

 

 「知らないうちに身についていた」となってこそ自然、それには膨大な時間と厳しい環境が必要です。「トレーニングは不自然なもの」と私は言っています。それはレッスンと同じく、「トレーニングも特別なものとして、最初はある」からです。

 10km走れるようになるための10kmまで走るトレーニングは不自然です。でも、登下校が10kmある学校へ走って通っている生徒には、それは自然だということです。歌も声も、10kmなどという数値目標はありませんが、私たち日本人が日本語を話すくらいになれば自然ということでしょう。そのための声であり、ヴォイトレなのです。

 トレーニングは、第一に「不足している絶対量としての時間と環境を取り戻すための手段」です。トレーニングをして、おかしくなるのはおかしいことです。しかし、トレーニングをして元のままというのは、もっとおかしいでしょう。今までと変わらない、つまり自然なままからみておかしくならないトレーニングというのは、おかしいのです。ただ、トレーニングの後に、そのおかしさが自然になるほどの域になったかどうかということです。

 「トレーニングは不自然なものです」から、それが「自然になるまでやる」ことです。続けているうちに前の自分では不自然なことが、トレーニングをした自分では自然になってきます。先の10km走の例でみれば、自分の体力、筋力、持続力、つまり、自分の器が大きくなって、前の自分や他の人には不自然なことが、今の自分では自然になったということに尽きるのです。

 

○質問に答えない

 

 この「時間」ということと、「自分」ということの2つを変数としてとらない人が、私のような考え方を批判していたように思います。

 私の言うことは「正しくない」とか、トレーニング方法が「害になる」、理論が「間違っている」など。これらは、いつ、どのシチュエーションでのことなのかが明示されてないと論じられません。すべては、総論でなく、個別のケースで具現化しなくては、ただの暴論です。

 すべて前に述べてきた、今の安易な教育の犠牲者の「間違った答え」に思えてなりません。

 そういう人たちは「問いにならない質問」や「答えのない質問」にこだわります。そしてそれに懇切丁寧に答えてくれる人を求めています。いつも、「正しい答え」をあれこれと探して、「どの方法がよい」とか、「どの理論がよい」とか言っています。それはその人だけの思い込みであって、他人には通じません。それどころか自分にもあてはまっていないことも多いものです。

 何でも本人が活かせる方向に応用させて使うのが、真、ノウハウであり、「使えないうちは使わない」のが、もっともよい考えです。でも、「今の自分のまま、少し楽して伸ばせればよい」という人には、そういうのが一番、求められます。

 これは、100メートルしか息のもたない人をペースダウンさせて200メートル走らせて、2倍も走れたと喜ばせているようなものです。これをテクニックと思うような人が多いことには驚かされます。そんなレベルのことであれば最初から歩けばよいのにと思います。まあ、筋トレとメンタルトレーニングだけでよいということです。

 本当のトレーニングと大きく違うのは、「本人が前後で大して変わっていないこと」です。

 つまり、この場合、求められている方法とは本人のままで対処するという「技法」にすぎないのです。技法は、この場合付け焼刃、メッキというようなことです。

 トレーニングは技法と違います。本人そのものの器を時間をかけて、大きく変えていくものというのが、私の定義です。なのに、こういったものがヴォイトレの方法と思われているようなので残念です。

 

○反成熟と自然界

 

 およその誤解の元は、レッスンを商品として考えるからなのです。商品は買うときに変わっては困るわけです。「よい商品は誰にでも同じような利益をもたらすことが約束されているもの」です。ですから、商品としてのレッスンは、自分が変わりたくない、このままの自分を、ちょっとよくして使っていきたいというような人たちに求められるわけです。

 で、そういう人の方が多くなっています。つまり、時間を経ると可能性がなくなることを選んでいるのです。いわゆる、「成長の否定」です。大きな成長を拒み、小さな変化にこだわる。

もしくは、いつまでもかわいい、若く(生理的に)いたいという反成熟化傾向です。そんなことを言うと歌や芸もそうなってきていると思いませんか?この方が根本的な問題です。なにせ目標、イメージ、ゴールがそこにあるのですから。そことは、この場合、そこは前でなく後です。

 

 私がトレーニングに求めるのは、「成熟させる」ことです。たとえ、「子供のような声で演じたい」という要望であっても、そのままにまねるとムリがくるから、自分の声の力をしっかりつけて、「自分のもっとも中心の発声を得て、声の管理もできてから、それに応用してみて演じなさい」ということです。アニメキャラ声の使い分けは、トレーニングの中心としては、あまりお勧めできません。

 アニメのキャラになりきるのが自分の好きなことであり、自分の望む表現だと思っている人は、とてもたくさんいます。でも、それは自分のいなかったところへ自分探しに行くようなものです。(先天的にいつまでも子供の声である人がごく少数いますが、)

 「応用してみて、そこから基礎をみる」ということでは、他人になりきるのは、旅や留学のように一時のプラスです。しかし、そこに自分のホームグラウンド、自分の世界があるのではないのです。

 私やトレーナー、あるいは師や親などを通してみるものは、人間の、あるいは自然界の大きな流れというものです。その現実の場はあなたの仕事場、そしてステージであるべきでしょう。(でも他人のまねの方が仕事になるという日本の業界の「二重性」はこれまでに述べました。)

 

○個性と画一化

 

 と考えるのは、私のなかに「人生は好きなことをするのではなく、自分にしかできないことをする」という信念があるからのようにも思います。

 若い人に限らず、自分の好きなことをやっている人を羨む傾向は強くなっています。そういう憧れの対象となる世界は、個性といえないほどに画一化しているのも事実です。

 今も歌手や役者、スポーツ選手などは人気者です。それよりは、一つの家の中で両親の代わりを一人で荷っている一番上の姉とかに、私は惹かれるのです。まわりに求められることにきちんと自分の役割を果たせている。この姉のやっていることは誰でもできるかもしれませんが、その家に入り込み無償でずっと働くことは誰でもできません。代替えの効くくらいの、大半のアスリートやアーティストでは太刀打ちできないのです。小さな工場で働く腕利きの職人も同じです。

 

○似非?疑似?民主主義から脱却する

 

 自分の興味、関心などは、大きな流れとは別の、自分の家の前でたまたまはまった水たまりのようなものです。ただ、自分の器が大きくなれば大きな流れと似てくることもあるでしょう。海外へ行ったり、家や家族、学校などを離れた旅などで意味があるのは、この水たまりがただ身近で小さくクローズしただけのものであり、自分が「井の中の蛙だ」と知ることができるからでしょう。

 

 「自分が選んで、その結果、自分が不幸になっても自分のせいだから、自分で決める」このような我儘なだけの民主主義に基づくとやら思われる考え方は、第二次世界大戦で負けてからずっと日本を支配してきました。仕事もつきあいも自分で選ぶ、さらに情報も好きなことだけを深めていく。

 これは、これからの日本が二極化していく、世界も二極化していきますが、情報化(金融化もその一つ)は、その最大要因です。ものづくりの世の中では、ここまでひどく、リッチとプアに分かれません。向上心や欲を失っているところで、学んでいくことを選べなかった人は、世界の貧しい人よりになっていく。(というか、今は日本人はプアといわれていても世界では相当リッチなのですが、プアになり、その次は世界でもプアになる)

 でも絶望的なのでなく、とても希望にあふれています。よく若い人に言うことなのですが、「努力は必ずしも報われないけど、そう思って努力しない人が増えている日本では、わずかな努力でも充分に報われる」からです。

 戦後の復興期~高度成長期までの日本人の努力と同じくらいの努力をしたら、今なら日本のトップレベルになれます。「みんなで勉強しないようにしているクラスに染まらなければ」ですが、「他のクラス=他の国ではとても努力しています」から…。

 

 自分だけの選択をそれほど信じられる、つまり、他人や先生のアドバイスを聞かなくなったのは、大きくみると不幸なことです。(昔から、若者は、そういうものでしたが、それは正しい道を認めたゆえのアウトローとしての反逆という自覚のもとにありえたのです。今や、上の者が正しい道を示せない。上から降りてしまったのです…。「一人前に育ててやるから、一言一句俺の言うとおりにしろ」、と言える師匠もいなくなったのです)

 もう一つの理由に、「間違ってもなんとか食べていける」「死なない」「飢えない」という幻想のような確信がどこかにあるからです。

これは戦後、奇跡的にラッキーであった日本の歩みのなかで埋め込まれたものでしょう。私たちの多くは、もう本当の飢えを知らないのです。ものあまり、生産過剰の世の中が生み出したといえます。

 社会や家庭がなくてもやっていけるし、会社も家庭も信用するにあたらない、という現実をたくさんみているのです。しかし、これこそが平和ボケの伝染です。その結果、孤独死の大量発生です。

 

 私は孤独死そのものは否定しません。しかし、それが本人が望んでいない人生であるのなら、回避すべきものでしょう。ただ、こうなるとコミュニティの問題となります。

 私の知人はマンション経営で生計をたて、生涯就職をしませんでした。しかしまわりから遊び人と言われ、尊敬されませんでした。遊び仲間をつくるのにほとんど散財していました。

 考えてみると、欧米のように働かないのが貴族というような処世観を日本人はもちません。どうもアーリーリタイアが許されるのは大橋巨泉なみのネットワークのある人ぐらいのようです。リタイア後の人生計画の立てにくい国民性で、これは、そう簡単に変わらないし、私としては変わってほしくないと思うのです。

 仕事をしていると必ず人が関わってきます。コミュニティが生じます。そのコミュニティで楽しく過ごす。ただ、そのためには、やはり実力が伴ってこそ、なのです。(血縁、地縁に代わって才能縁となると、やはり一握りの人たちだけで、せいぜい趣味縁を大切に、ということになるのかもしれません)

 

○再び、トレーナーとして

 私の研究所は組織で指導体制をとっていますが、一般的にヴォイストレーナーという職は一匹狼です。自分で全てを決めて好きなようにやれます。働いた分、すべて自分の収入になるかわりに、病気になればアウトというフリーの仕事です。

 レッスンの方針、そして方法の決定についての見解は、これまでも述べてきました。すぐれたトレーナーでも、そのやり方が全ての人のそのときの状況に正しいことはありません。

 私としては、相手に先に述べた大きな流れを感じさせることのできるトレーナーが、トレーナーとよぶにふさわしいと思います。

 専門家としていうなら、「医者は手術の方法を患者の直観(一夜漬けの勉強)での決定に委ねるがよい」などというのとは違うと思うのです。(自分の死の確率を選ぶのは、本人だけの権利なのでしょうか)

 

 トレーナーを次々に乗り換えていくのに力のつかない人、これも「自己決定力」がありすぎて学べない例です。少なくともレッスンを通じて判断力が高まっていくように学ばなくてはなりません。

 「前のトレーナーの方法がよくなかった」などという次のトレーナーとの合意は、次のレッスンへの期待と充実感のためであることが大半というのは、前にも述べました。(前のトレーナーが初心者であったり、一人も育てていないなら別ですが)

 「レッスン代が高かった」というようなクレームも「早くすぐに身に付く」ものは、一言アドバイスに過ぎないと思えば、何でもそうなります。

 結局、トレーニングとしてのレッスンの意味や価値は、自分が変わっていくプロセスであり、そして、その先に別人のようになって、ようやく得られるというものなのです。