fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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森英恵さんの死 表参道の思い出

◯スポーツと研究者

昭和40年頃までは、日本の優れた運動能力のある人は、野球選手でしたが、その後、いろんなスポーツに才能がある人が分散していきました。

オリンピックのメダルをとるようなスポーツ選手は、幼い頃から両親に鍛えられた稀少なエリートです。企業戦士一般よりは、研究者などの育成と通じるかと存じます。

日本の研究力の衰えは、日本という国の国際的存在価値、及び、防衛にも関わる、由々しき問題です。

お子様たちは、かつてのように、科学雑誌を読むのでなくゲームに興じるご時世です。eスポーツは、大きなビジネスとなりましたし、その能力は必須となったのかもしれませんが。

 

今、放映中のドラマ「オールドルーキー」は、スポーツマネジメントの話ですね。

マネジメントに関しては、日本では、男系体育会的閉鎖的組織体質から、ようやく女性参加などで新しい風を吹きこんできた状況です。

 

韓国が、音楽と映画で成功したような、国家戦略としての文化振興は、日本においても試みられてきましたが、国が関わるほどにオワコンになっています。

何より、スポーツは、相変わらず、欧米のルールがスタンダードで、本場は、ほとんど向こうです。

ビジネスマネジメントもそのスケールによって、報酬の差も大きく、優秀な選手は欧米に行きます。芸術家も同じで、二極化です。そして、ビジネスマンまでが、この点では、同じになりつつあります。

国内では、貧しさに耐えながら頑張りますが、貧しいところから優秀な人材はどんどん流出していくでしょう。

一方で、それなりの規模のある日本国内市場というガラパゴス状態は、続いているわけです。

経済から文化のほうに日本は移ったのに、肝心の教育が追いついていない現状です。そこで国際交流、いや移民政策ということになるのです。

 

森英恵からユニクロへ、いえ

 

HANAE MORIと私

 

森英恵さん、老衰のため、96歳没。8/11

表参道のランドマークだった丹下健三設計の「ハナエモリビル」が

「オーク表参道」に変わってから、9年、経ちます。

根津美術館へと続くみゆき通りにフロムファーストビル(1975年)

1978年に、ラフォーレ原宿とハナエ・モリビルができました。

t's harajukuのところには、原宿セントラルアパート(1958年)

がありました。

 

レオン、モーツァルトなどの喫茶店で、よく打ち合わせしました。

コープ・オリンピアの屋上で練習したり、千疋屋の横のスエヒロ、向かいのコロンバンなども。(そういえば、先日、交差点のオリンピアアネックスも解体、建て替え中でした。)

その頃、就職するつもりもなく、受けた一社が、なぜか、「流行通信」でした。

ハナエモリビルの横の富士銀行が、メイン銀行でしたので、

表参道の坂道、同潤会アパート(現、表参道ヒルズ)のまえを歩いたものです。

 

森英恵さんの生涯

1948年、学生時代に勤労動員の工場で知り合った森賢と結婚。

森賢の実家は一宮市の繊維会社だったので、ドレスメーカー女学院に通い、

1951年新宿東口のラーメン店2階に洋装店「ひよしや」開店。

1954年、銀座に「HANAE MORI」オープン。

森賢の紹介から『太陽の季節』『狂った果実』など、400本もの映画の衣装を手掛ける。

1965年、ニューヨーク・コレクションに初参加。

蝶をモチーフにしたドレス作品で「マダム・バタフライ」と呼ばれる。

1977年にはパリ・コレクションに進出し、

フランス・オートクチュール組合にアジアからの初めての会員。

流行通信』『STUDIO VOICE』などのファッション雑誌を発刊。

1985年から「ファッション通信」放送

ハナエモリのロゴと蝶のマーク(田中一光デザイン)を冠したライセンス商法。

 

1983年、青木定雄のエムケイタクシーの制服のデザインを制作。

1988年、美空ひばり復活コンサートでの不死鳥をイメージした衣装。

1992年、バルセロナ五輪日本選手団の公式ユニフォーム。

1993年、皇太子妃雅子さまの結婚の儀のローブ・デコルテのデザイン。

 

1980年代後半には国内6社、海外4社、年商は400億円以上。

 

1996年10月、森賢が死去、その後、経営が傾き、

2002年5月、民事再生法を申請、負債総額101億円で倒産。

直前にプレタポルテ部門とライセンス事業を三井物産ロスチャイルドグループへ売却。

2004年7月、パリで2004A/Wオートクチュール・コレクションを最後に引退。