fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

表現、創作、スピーチ、雑談のネタの欲しい人、今の自分と社会・世界を結びつけたい人、考えを深めたい人に

高い声における構造問題 その表現と表象

「年齢は1番若く、顔で選んでくれれば1番を取るのは決まっている」

と石井章参議院議員が候補を応援した発言(5/15)に対し、批判が出て、

ルッキズムとかジェンダーについて言葉を選ぶように」と

維新の藤田幹事長が注意しました。

 

今の日本の選挙、争点もなく論点もなく、議論しても噛み合わず、公言したことも当選したら、すぐ取り下げる、首相でさえ、、。除名処分さえ、後日、当選したら公認する。

これなら、若さや顔で、直感的に選ぶ方が、ずっとマシと言える状況ですけどね。

 

続けます、高い声の問題、4回目です。

 

◯笑顔とルッキング

声についても、笑顔で置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。

日本人は、外国人ほど、表情や仕草で感情を表しません。そうした社会風土の中で育っています。ですから、笑顔というコミニケーションの最大の武器に対しても、海外の人ほど磨かれていません。特に男性はだめです。笑顔の女性に弱すぎます。(^^)

しかし、作りすぎは不自然です。微笑むくらいの表情が好感がもたれるのだと思います。このあたり、ジャパニーズ・スマイルとしても、賛否両論ありますが、私はアメリカン・スマイルよりは、ロイヤル・スマイルのようで、いいと思っています。

 

ミラートレーニングなどで笑顔を作る場合があります。これは女性だけではありません、男性でも営業や接待の仕事をしている人は、顔の表情で好印象と信頼を得るようにしています。

女性となると、笑顔の力は、男性以上に魅力的に働くといえます。そこをもっても、ハラスメントというのでしょうか。

それでは「笑顔で接客しなさい」ということさえ、笑顔強要でハラスメントになりかねません。

 

◯自分の意思か構造か

本人が好んで、ハイヒールを履き、かわいいコスプレをしたり、「甘ったれた声」を出したりするのも、社会的な圧力で、とみるとしたら、踏み込みすぎでしょう。

確かに、本人に自覚もなく無意識に動かされていることもあるでしょう。

しかし、構造的にそう思い込まされているといえば、なんでもそのように言えます。自分の意思や考えということさえ、なくなってしまいかねません。

 

流行もおしゃれも買い物も、そういうものでしょう。自己主張、自己表現でもあるのです。

特に若いときは、時流に合わせることによって、自分の個性を見出していくのです。

 

◯女性言葉とジェンダー

「女性らしい言葉」や「女性の言葉」は、以前から、ジェンダーの問題でよく取り扱われてきました。

そうした規範を強要されているのか、なんとも思っていないのか、あるいは、利用しているのかは、本人の意識です。そして、区別しにくいものです。☆

外からはわからないし、本人も明瞭に意識できていないことが多いのです。そのときはそうだったのに、あとから思うとそうでなかったと覆ったりもするからです。

 

難しいのは、人間、自覚して、自分の意志でそうしたくてしていると思ったことでも、必ずしもそうでないことも多いからです。それが声になると、なおさらわかりにくいのです。

メイクやファッションであれば、鏡で見て自分で細かく修正するので、少なくとも自分がそのように演出している自覚はあるわけです。実際の外に示す形、つまり、他人が受け取るものと、自分のイメージは、一致しているからです。

ところが、声の場合は、自分が出したものの把握ができていない人が大多数なので、自分のそういうつもりで出したのと、実際とが異なる場合も多いのです。さらに形はないので、相手がどう受け止めたかも不確かです。よほど特殊でない限り、十人十色の受け止め方となります。

「甘ったれた声」という例を出しましたが、そう思う人もそう思わない人もいる、本人もそう思って出しているとは限りません。

 

「そう言ったでしょう。」

「そういうつもりで言ったのではない」

言葉は、形なので、言質をとれます。しかし、声に込められたニュアンスなどは、明確ではないのです。となると、人間、都合のよいようにとるものです。

 

自己主張と考えて、その声を使う人を洗脳されているというなら度が過ぎます。

それこそ個人の自由な表現の規制になりかねません。



◯作り声

「声を作る」というのが、どうも、その人が本来自然に持っている自分の声とやらを抑え、相手に媚びるような甘ったれた声を使うような意味で使われています。

 

では、一体、自分の声とは、何かということになります。

自分の声とそうでない声と二極化して対置させられるものでしょうか。

 

それは、化粧やおしゃれとどう違うのでしょう。

異性に媚びるためと、魅力的に見せるようにするのと、自分自身の個性の表現と、それらを明確に分けられるものでしょうか。

モテるために行動するのは、あるいは魅力的に振る舞ったり、目立ちたいと思うところは、どちらの性も同じでしょう。

 

ここまで「高い声を使え」という女性への無言の圧力が、ジェンダー問題?ということできましたが、

ある女性には、「高い声を使うな」こそ、「職場で個性を出すな」になりかねません。

 

そこまで意識しなくても、人は柔軟に対応して、TPOに合わせ、声や表情を作っているのです。

問題とされるのは、アニメっぽい幼い女の子の声ですが、確かにビジュアルでは、ときたま、アンバランスな表象が問題となります。多くは、誇張したバストですが、声においては、同じようにみることはできません。作画でなく、声は、すでに本人が得て、使ってきたものです。誰もが、程度の差こそあれ、生来の声をそれなりに演出して生きてきたのです。

 

◯声の表現と規制

昭和の時代に、NHKは、歌詞の自主規制、差別用語禁止というよりは言葉狩りをし、企業や商品名、自分の名前などを放映しないために、変えるという暴挙をしていました。

歌詞だけでなく、声まで規制したといえるようなこともあったのです。

青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」の出だしなどが一例です。

今では、言葉はともかく、声にそういうことは、なさそうです。

 

なんかめんどくさくややこしくなってきましたが、続けます。