◯歴史は繰り返す そして歴史も変わる
東日本震災復興では、後藤新平の関東大震災後の復興計画が着目されました。
今、太平洋戦争に至る流れで、再び、石橋湛山が語られるようになってきています。
江戸の3大改革と言われる、享保の改革、寛政のの改革、天保の改革を見ると、60年ごとぐらいに行われていることがわかります。
内容をかみ砕くには、けっこう複雑、長く続かなかったところでも、私が学んだ教育と今の学説で異なっていることも多いようです。田沼意次の延長に寛政の改革がおかれているとは、意外でした。
でも、いろいろと現在とリンクするところがあります。
田沼時代が終わり、農業人口は140万人も減少、財政難の解消、封建的社会構造の維持が課題でした。
寛政の改革では、これまでの収奪政策を改め、救民の政治をめざしました。
松平定信は、飢餓対策に取り組み、凶作や自然災害に備え、米や金銭を貯えました。
中間搾取の株仲間を廃止し、年貢米の廻送、蔵納めを村の直納、江戸の米商人から廻米納方引請人を任命、農民の負担軽減をします。
人口の増加政策では、間引きの禁止、児童手当を支給し、1790年には2人目の子供に金1両を1799年には2両を支給します。
幕府公金の貸出を増大させ、この年利金を、小児養育や帰農、荒地復興など農村復興、宿場助成、用水普請助成、鉱山復興を進めたわけです。
飢饉対策として、籾蔵を設け、不正役人を交代させ、その結果、寺西重次郎、岡田清助などの名代官が出たそうです。
石川島に無宿者を収容する人足寄場を設置し、窮民救済のための七分積金令の発令や町会所を設置、貧民蜂起を予防もしました。
#石橋湛山<大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。(Wikipedia)>