母性と感動 身体性の演奏

◯伝わる演奏

セロ弾きのゴーシュ」♯のゴーシュは、楽団長に、下手で怒られ、テクニックの上達と表情づけを注意されます。いかに弾くべきかを教えられるのです。

ところが、ゴーシュは、本番では、突然、皆を感動させる演奏をします。

そのまえに、自然や動物との交流を通して得られたことが、内面の変化となり、演奏に出てきたと思われます。

 

大切なのは、音楽の表現の何を捉えていくかということです。

テクニカルな演奏家や歌い手は、たくさんいます。

何でもうまく歌える人も多いです。

しかし、何をどうするのかということが、そこにはありません。

 

宮沢賢治の表現

宮沢賢治という作家は、あらゆることに力を注ぎました。しかし、中央での評価を得られませんでした。それに囚われもなかったのでしょう。

彼の作品では、動物や自然をとても愛したようにも思います。

母のように暖かく万物を包み込んだのでしょう。

 

たぶん、日蓮宗などの影響もあり、当時の近代主義に対抗して、生の原始性、非合理性を謳歌しようとしたのでしょう。

自身は、セロの習得では上達しなかったそうです。そのためにいろいろと悩み、考えたことと思われます。

 

◯表現は、身体性に基づく

ゴーシュは、聴衆に対して怒りを持って、コミニケーションを断ち切ろうと演奏します。

しかし、それを聞いて聴衆が感動するのです。

演奏者はコミニケーションを目的としているわけではありません。

身体が演奏し、身体がそれを聞くわけです。ダイナミクスの働きです。

 

「ゴーシュ君よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ」と楽長が言いました。「いやからだが丈夫だからこんなこともできるよ」と。

 

自分が何者であって、作品がどういう意味を持つかを、全身でつかめるのかどうかが勝負なのかもしれません。

 

◯素朴な声、歌の魅力

子供やおじいさんおばあさんの歌に、感動することがあります。私も以前、若手の合宿で、そこに混じった年配のお医者さんの歌に心を打たれました。

大学などで研修するときは、そこの担任や見学にきたお偉方にも、参加してもらいます。私のすることを客観的に見させたくないし、そういう眼差しが、ときに学生との貴重な場を崩すこともあるから、巻き込むのです。

で、声を出して読ませると、長く生きた人ほど説得力があります。そこは学生も気づくほどなのです。よい見本となります。

「すいません」など、本当にうまかったりするのです。

「その言葉、使い慣れているからでしょうね」と、笑いに落とします。

 

歌でも、カラオケのうまい人ほど、形が見えてしまうのが多いのです。

素朴な歌は、形を取らないのです。口先でなく、その人の身体からの声が出るのです。

それが、心です。

 

子供の絵や歌などがつまらなくなるのは、授業できちんと文字や数字をマスに入れるようなことを習い、他人と同じようにするような能力を身につけていくからです。

私は、小中学生の合唱団の声より、彼らが楽屋で騒いでる声の方が、魅力的と感じるたちなので、そう思う傾向が強いようです。

 

 

♯『セロ弾きのゴーシュ』は、宮沢賢治の童話。活動写真館の楽団の未熟なチェリストが、動物との交流により演奏技術を向上させていく。賢治が亡くなった翌年の1934年に発表された。(Wikipedia参考)