◯モノづくりからスピリチュアルに
戦後しばらくは、物不足だったこともあり、ものづくり、いわゆるエンジニア技術者に憧れたわけです。美輪明宏さんのヨイトマケの唄にも出てきます。
今や、関心は、モノよりスピリチュアルなことになるのかもしれません。
あたかも新興宗教のように、この世に生まれた理由や生きがい、善悪、正誤などを教えてくれるものもあるからです。あるいは、人間関係が濃密なようにみえ、自分の居場所が与えられるように思えるからです。
実体のないものを言葉で名付けてあるのは、その裏に何かが存在しているものです。
スピリチュアルな気分を感じるだけでなく、そこに引きつけられる自分と引きつけるものの実体に迫ってみましょう。
◯体験の軽視
私たちの世代までは、成績がよければ医学部に、頭が良ければ東大に行く、官僚や銀行に、というようなエリートコースがありました。そこから知識や情報に重点が置かれるようになっていくわけです。
技術を身に付けるための体験教育が少なくなるにつれ、頭でっかちで身体がついていかない人が増えていきました。学校では気づかないで卒業した人も、社会に出たら鍛えられ直されたものです。ある意味で、社会適応への洗脳ですが。
しかし、今は、社会でも、そのまま放任となりました。その人個人の関心や意欲を評価しようとなった点では、悪いことではありません。
でも、若いうちは、自己愛が強く、とはいえ、ほんとに自分が好きなのではなく、自分に関心が高いオタクっぽいのです。一方で、他の人や他の世界に関心を持たなくなりました。
もちろん、全ての人がそうではありませんが。でも、なんだか、人間よりも、エコロジー、環境問題などの方に意識が高いようにも思えるのです。
まわりの大人は、彼らに、厳しくしない、怒らないように扱います。
年齢を超えてフェアに対する、というよりは、
メンヘルで凹みやすく、立ち直りに時間がかかる人が多いからでしょう。
それでは、いつまでたっても、自立できないどころか、気づかないままです。
◯環境問題と自分
環境とは、自分のまわりのことだけでなく、自分そのものです。自分と切り離されるものではなく、里や山河なども、自分とくっついているのです。空気も外にあるのでなく、自分の中にもあるわけです。
ですから環境と、言葉で切り離してみることは、おかしいのです。
環境は外、自分は、内のように分かれるものではありません。
そして、自分らしさや自分というものは、まわりとの関係なしに見いだせるものではありません。
自分のことであれば、誰でも大切にするわけです。
環境について考えるとは、自分について考えることにほかなりません。