fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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戦争と闘争本能 敵基地攻撃力の保有問題

◯戦争を学ぶ必要性

日本人は、第二次世界大戦で懲りて、「戦争はいけない」で、思考停止、

戦争のことを教えることもなければ、戦争はいけないことなどは誰でも知っているのに、なぜ起きるのかなどのケーススタディーなども学ばされていないわけです。

とはいえ、この時代となっては、自分で学ぼうとしたら学べるので、徹底して学んでみてください。

ウクライナ危機も、過去に遡ったり、日本と関連付けてみたら、あらゆることが学べます。

 

◯闘争本能

人間は、昔から戦いの代わりに、スポーツやゲームなどの勝負事で争うようにしてきました。

しかし、闘争本能が、勝負事やゲームを作り、戦争も生み出していると考える方がしぜんなわけです。

人々にとって、勝つこと、勝って何かを得ることは、この上なく生きがいや充実を感じることです。いや、勝敗に関係なく、戦うことや勝負をすること自体が何よりも好きな人も少なくありません。

日本でも、戦争、戦場は楽しかったと言う人もいたのです。この辺を述べるのは、日本ではほぼタブーなことですが、人間のそういう面を無視する方が、ずっと危険です。

 

戦争は、国際的なルールの中で行われているとはいえ、殺傷行為です。殺そうとする方が、殺されるほうの痛みを考えたり感じたりしていられる状態ではありません。

自分の仲間がやられるとやり返さなければと思うのは、当然でしょう。それが高じてやられる前にやらなくてはとなるわけです。

私たちは、先に手を出した方が悪い、と教わりました。

今の日本は、いつの間にか、この2つの違いさえ、わからなくなるようなところにいるのかもしれません。

 

◯日本での先制的自衛権

敵基地攻撃と先制攻撃、抑止力と自衛力などは、きちんと定義して論じることです。能力を持つのとそれを行使することさえ混同してしまうような国ですから。

しかし、そこをどう定めてもいろんな解釈ができるだけに、国際的な合意は容易ではありません。なぜなら歴史事実そのもののの捉え方が争っている双方で全く違っているからです。

 

銃を持たないと自衛できないから必要だと自宅に銃を置いている人のいる国に対して、銃を持つと使ってしまう、使いたくなったり、誤って使ったりするから持たない方がよいとして歩んできた我が国では、同じ土俵には立つのも困難でしょう。アメリカの傘の下と言う、二重に難しい問題があるだけになおさらです。

自立していない子供に銃を持たせたら危険だからです。武器を持つリスクと持たないリスクをしっかりと個人で考える機会さえないのですから。税金の申告さえ自分でしなくて済む人が多い国なのです。

自衛権といっても、自分の国から身を守ることなど考えないでこれたのは、幸福でもあり、それだけ、忍耐強くもあったわけでしょう。

 

一神教多神教

私たち日本人は、一神教での宗教戦争の歴史を見て、そこに寛容性のなさを感じます。

一方、一つの神様を信じるということは、その神様を信じない人たちを改心させるか滅ぼした方が本人たちのためになると信じます。そこに闘いが出てくるわけです。

とはいえ、一神教は、神と自分の関係を中心なので、他人にあまり関心を持ったり干渉しません。だから、ある意味では、まわりの人の意向に左右されないフェアの観念が強くあります。

 

◯日本社会の怖さ

日本のように、まわりを監視する同調圧力社会の方が、他人を差別したり排斥しやすいとも思われます。他人に干渉するのは、島国、田舎や村のよさ、親切さでもあり、気まずいところでもあるわけです。

何よりも、一気に全員が、バランスの崩れた方向に流れゆく気質のあることには、くれぐれも気をつけなくてはなりません。

そういうところでは、あるときから急に、異なる考えや自由ということが許されなくなるのです。それは、今のどっかの国々と案外と似ているのです。

しかも、それを上から強制されずとも、忖度の同調圧力でやってしまうのです。政治家ばかりかメディアも。

まわりの人から身を守らなくてはいけないというのは、不幸でもあり、非常事態においては、もっとも不安なところです。