オンライン会談で、EU首脳たちの心を揺さぶったゼレンスキー大統領の発言がありました。
「ヨーロッパの理想のために殉じる、生きているうちに会えるのは、これが最後かもしれない。」(2/24)
こういうリーダーを持つ国、選べる国は、強いですね。
日本のコメディアンにも期待したいものです。
〇罪と罰
争いは、それを被った人に悲しみを与え、相手への憎しみに転嫁します。相手の犯した罪を罰することによって、自分の負の感情を治めようとします。
よくある例で、愛する人を殺された被害者が犯人を殺そうとして、刑事などに、「故人がそんなことを望んでいると思うか」と諌められ、あきらめるシーンがあります。それなりに感動的な落とし前の付け方です。
確かにそこで殺してしまうことによって一時的に憎しみが解消しても、復讐を大きな罪悪感として背負っていくことになるでしょうから、説得力があります。
でも、憎しみをおさめ、悲しみをそのままに、祈りのように、愛のように、穏やかになって生きていけるのでしょうか。
未だ、世界は法治国家でありながら、「目には目、歯には歯」でのリベンジでの犯罪再発防止策、あるいは国防での対策をとっています。
彼らに言わせると、それは受けた分までの復讐でとどめるため、ということです。感情に任せると、実際には、それ以上のことをやってしまいがちだからです。
〇神と宗教
神や宗教というのは、大切な世界ですが、私も含めて、多くの人は、それを感じながらもどこかで拒否して生きていると思います。
なので、被害者に同情すると、「一緒に復讐しよう」と思ったりもします。かといって、「それはよくない」などと、客観視するとコメンテーターのように感情的ではなくなり、心も亡くなりかねません。
神や宗教は、そうしたものを引き受けてくれるシステムです。
個人の感情のなかで処理するには、あまりに大きな問題は、ストレートに受けとると、病気になったり狂ったりしてしまいかねないからです。
〇修行
ときには、人は感情的にならざるを得ないときあります。
心は悲しんでも表面に出さず事務的に仕事をする、心で割り切り、表面的に出ないようにして、できるだけ相手に寄り添うようにするなど、ケースによっていろいろと対応は変わるでしょう。変幻自在になれればよいのですが、それには私なぞは修行が足りません。
〇体験知
ある表彰式で、賞状を渡す役をしました。相手が幼児だったので、私は、膝を折り2、3言、話しかけながら渡しました。後でそれを見ていた主催者の人に「なかなか、そういうふうにはできないものです」と褒められました。
私は膝を折ったことに気づいていなかったので、「低い方に渡すのですから、当然でしょう」と言いました。その人は、「今までの人は、皆、つったったまま、腕だけおろして渡していました」というのです。
私は、学生の頃にプールで幼児や低学年の子を教えていたことを思い出しました。でも、誰にでも、膝を折り、子供と接するも経験はあったはずです。
そうした自然な動作を妨げるのは、慣例として見てきた経験とか儀式的な場での振舞いという固定観念です。
つまり、賞状を渡すのは、偉い人ということです。でも、偉いのは、賞状をもらう人であり、そちらが主役なのです。もし習うとするなら、上皇様が見舞いに行った先でのお振舞いです。
そういえば、バスケットを始めたとき、ボールを拾うのに膝を曲げないで拾い、注意されたことがありました。その頃よりは、私の身体の感受性は上がっているのでしょう。