fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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「コロナ禍で考えたこと、 ~さらなる弱体化とその反動への注意」

〇弱者をみない政策

 

今回のコロナ禍で、日本ではほぼ千名超えの死者数です。この事態に対し、自分の命よりも他の人、特に高齢者の命を危険にさらさないことから生命第一として行動を自粛するのは、疑いなく正しいことです。私も高齢者に声をかけて招いたり、お宅に伺うことをやめています。

それをふまえても、こちらもまた自らを早々に弱者として専守防衛に入ることは、どうなのかと思わされることもあります。後述します。

弱者にも、心身の健康でない弱者と経済的な弱者があります。現場に出る人をよい意味で戦士というなら、医療関係者とそのフォローの人、食、薬などの製造、運搬、配給をを支える人がいます。しかし、それ以外にも生活苦で働かざるをえない人も危険な場に出なくてはいけない人もいます。

 

大企業は、内部留保があるし、高齢者や正社員は、収入が減少したり、なくなっても、それなりのストックは、ありましょう。他の国に後追いして始められた、自粛に対する保障や、それを当然と求めることの根拠なども、後日、よくよく考える必要があると思うのです。

ドイツなどでは、フリーランサーや中小企業、事業者、農業関係者、文化関係者など、経済的に弱く生命を脅かされそうな人から、給付が始まりました。東ドイツで若き日を過ごしたメルケル首相だから、メッセージにも説得力がありました。

しかし、日本の政策は、いつも本当に今日を困っている人が後まわしで、常に利権ありきなのではないでしょうか。GO TOキャンペーンも、どうみても、ミドルクラスから上の業者とお客様サービスです。

 

〇構造に組みする同調と忖度

 

話を戻して、弱者の救済というのは、さらに新たな弱い弱者を生み出しかねません。それにしても、なぜ、弱者は強者に自ら搾取されるよう自ら動いていくのでしょうか。弱者には、あきらめている人も多いのですが、いつの世にも強者に対抗して、その権威・権力を打ち壊そうとする人がいたはずです。そういう人はどこにいったのでしょう。

どうも、この情報化社会では、強者のメッセージを学び、今、強者に対抗するのでなく、彼らに組みして、支え、あわよくば「自分もお裾分けを」と、なってきたのではないかと思うことがあります。つまり、上下関係もないのに、自ら組み込まれ忖度していっているように思えてならないのです。 

強者は、常に「自分本位に夢を描き、思うままに自由に生きたら、人生が拓けていく」と自らの体験をもとに説きます。そういうことばに触れているうちに、強者の頭で考えるようになってしまうのでしょうか。

 

たとえば、なぜ一部の有名人に時間も金銭もこれだけ捧げるのでしょうか。稼がせているのは、稼げていない人たちなのです。TVに出て、庶民の怒りや不満を演じている有名人は、それによって数時間で、一般の人の月収、年収分を得ているのです。ボランティア募金をつのる番組の出演料とか、寄付や援助の組織のマージンとかいう構造的搾取は、“アマビエ”まで商標登録しようとした電通ほか、今回の支援でも中抜きは明らかになりました。そうした構図もみえているのに。

 

でも、トップとして矢面に立つより、そこまでの欲はなく甘い汁だけ吸えたらよいという輩が増えたのでしょうか。

となると、それはまさに戦後の日本人の生き方のもたらしたものであり、2世3世とさらに牙や骨を抜かれた21世紀、令和の日本人の気質なのでしょう。

頭だけでかくなって、与えられた情報に振りまわされ、何ら、現実はよくならない、悪くなるばかりなのに、変わると信じているとしたら。「変える」でなく、「変わる」、これでは「誰かが変える」となり、ヒーロー=独裁者待望になりかねません。すでに世界的には、自国ファーストも含め、そうなりつつあります。

 

〇歴史に学ぶ

 

韓国の歴史ドラマでは象徴的ですが、中国が攻めてくるときに戦う派と和議を結ぶ派が対立します。どちらがよいのかは、主人公のいる側が、最終的には、正しい判断をして、戦いに勝利したり、戦わずして民を守り、国を保つことになるのです。

今の日本人なら、オール和睦、いざとなれば、ステイホームで、アメリカなどに戦ってもらうなどというくらいになるのではないでしょうか。

 民族として奴隷にされたことも奴隷にしたこともないと、「奴隷になるくらいなら自ら戦う」、つまり、自由のために戦うという精神は、欠いてしまうのでしょうか。

それは、第二次世界大戦の敗戦後に日本人が失ったもっとも大きなものでした。しかし、当初は、精神なので、兵士たちの血肉には入っていたのですが、彼らの子孫、今の団塊がその子、ジュニアが孫とすると、それは敗戦を終戦としてごまかし伝えられず、薄まったのです。

 

人権や民主主義は、感染症の流行で労力が高く認められ、封建制が崩壊して生まれたともいえるそうです。

アメリカでは、黒人デモ、人権デモ、中国では香港民主デモと、どちらも次代の覇権争いを揺るがすことになりかねない動きが出ています。

日本では、SNS中傷のタレントの自殺から、法案改正が出てきました。弱者への中傷を抑えるのを権力・権威への批判からでなく、それを抑えたい側の体制側の判断で出てきているわけです。

 命は尊いゆえ、身体への危害はだめ、強いことばもだめとハラスメント認定、コンプライアンスと同じく、よかれと思って、規制は広まります。正義、正しい、フェア(公平、公正)、平等を全く疑わない人々の登場は好ましいことではありません。

 

〇もっとも危惧すること

 

指示しなくては動かない、注意してもわからない、それが、もうよほどのことでないと注意も叱咤もしない、となりました。しつけや教育の形が変わったのでなく、双方の気力、体力、今より将来をよくするために忍耐する力が落ちたのです。

かつては、理不尽なことになったら考えて改めるか、対抗策を講じました。理不尽とは、コロナ禍のような不条理にも通じます。そこを理屈だけで通そうとするとムリが生じます。

今は、考えるという問題提起、動機が与えられないので、よほど気づける人以外は、そのまま、改めもせず、対抗もせず、考えを深めもせず、子供のまま大人なのです。戦わないこと、競わないことが、こうした不毛をもたらすのかと思わざるをえません。その結果、当然、また格差は拡がるのです。

弱く幼いことをよしとする受け身の日本人の気質はともかく、こうした風潮、皆が子供の心をもてばユートピアのような幻想を、いじめを身近にみてきたであろう若者が招いてしまうとしたら、あまりに未熟でしょう。

 

経験しなくとも、人は知り学び気づくことでイマジネーションを働かせ、共感して、血肉にできます。しかし、豊かに想像することも、しっかりと深く考えることもなくては、どうしようもありません。成長できないならまだしも、極端に偏向した考えに染まってしまうからです。これは、とても危険な兆候だと思うのです。

(PS.菅内閣発足時のマスコミの報道と若者の支持率の高さには、驚くほか、ありません。)