ロシアが悪者となっている世評のなかで、ロシアの言い分を聞くべきだとか、歴史的な経緯とか、これまでの約束事の遵守など、言う人もいます。
争いごとは、お互いに言い分があり、それぞれの正義があるでしょう。
ロシアでは、国営メディアで伝わる情報だけですが、それを操作されていると言っても、アメリカ側が伝える情報が、これまでいかに陰謀まみれであったのかがわかっている今となっては、似たようなものだと思います。
もはや情報戦は加熱して、死傷者などは何倍にも増して伝えられます。相手を非難するために情報を駆使した自作自演も含め、さまざまな工作もなされます。
見解は、立場によって違います。メディアでも立場によって違うのは当然です。特に初期には正確でないだけに、その意図が反映されます。要は、事実がどうなのかです。
ただし、この時代において、武力で脅し、軍隊を使い、町を破壊したり死傷者を出すのは、横暴で行き過ぎとみなされてもやむを得ないでしょう。
そこに軍隊で応戦すると、次に、核となったり世界大戦となりかねないので、慎重にならざるをえません。かといって、話し合いに期待し、平和に融和政策をとるなら、先の大戦のナチスドイツのようになりかねません。いちど戦火を切ってしまうと、あっという間に広まってしまうことやその落としどころがとても難しくなることを、私たちは学ばされてきたわけです。
この時代、個人においても、話し合いで、口論においては、いくら争ってもよいが、殴ったり武器を使ってはならないわけです。もはや、理由がなんであれ、人を殺すことは非難に値することです。
戦時においても、民間人についてはそういう考えが、ずっとありました。
今や、それは、兵士に対しても適用されていいと、私は思います。
自分や自分の仲間の命を守るために、正当防衛する、その論理で、兵士は兵士を殺していいところで複雑になります。
ロシアがウクライナの民間人を避難させるまで待つとしたことが、残っている人は民間人ではないので殺されても仕方のない存在だとみなし、強力な武力を行使するならば、恐ろしいことです。
映像も編集されたものであり、フェイクニュースなどもありますから、そのまま信じるわけにはいきません。街が壊されたり人が殺されたところでさえ、疑えばキリがありません。
まずは、根拠となるロシア側の侵攻の理由、ウクライナ東部でのジェノサイドの事実を示すことでしょう。
今回、ロシア国内でも反対運動が起きていることは、無視できないことと思います。ロシアのプーチン大統領が、追い詰められる方が、よほど怖いことかもしれません。
どこかに悪の存在があり、それを叩けば世界はよくなると考え、それを自分は知っていると信じて、まわりに行動を呼びかける人がいます。
人々を正しい方向に導こうとして、それによって、よりよい未来がくると、唱える人もいます。
でも、安易に、そうした正義感を信じないことが大切です。
人とのつながりを無条件によいものとしてはなりません。
深い思慮なく連携することが、いかに危ういのかも知らなければいけません。
そうした行動と連帯が、そうでない人々の自由を奪って、厳格な管理社会になってしまうのです。
善意が暴力を生み、正義が虐殺と独裁を生み出したのです。
善意の活動家として出てくる人が、どんなに危険になったのかを忘れてはなりません。
人生において、ガーデニング、ハイキング、キャンプ、楽器演奏、絵を描く、読書する、食事での団欒、ボランティア活動などが、あたかも、理想的な生活目標みたいに語られるようになってきました。ITや金融でのFIREとは、真逆の、健全な価値観のようにもみえます。
一糸乱れないダンスなどにも、美しさを感じる人と胡散臭さを感じる人がいます。
人間の闘争本能や嫉妬や妬み、功名心などは、うまく昇華されると、スポーツでの勝利や人類への貢献を導き出す発明などにつながります。
人間は、複雑で自意識にさいなまされる存在なのです。支配欲を始め、いろんな欲望があります。また、そういうものを全て押さえつけるなら、もはや人間と言えるのかとも思うのです。
自ら進んで、平等より自由を選択することもあります。豊かで安定した生活よりも、貧しくても自分の欲することを選ぶこともあります。
人間は、合理的な選択をよしとするとは限りません。いや、そのようになるべきであることを前提にしてはなりません。
社会問題には、こうしたシンプルで共通の、断定的な結論などは、出せないのです。