fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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私という者 個人とのボーダー

〇開かれている音 

音を聞いているとき、それは紛れもなく私が聞いているのですが、私の周りにその音の振動が空気としてあります。それが私の耳の中に入ってきたから聞こえるわけです。

私の体は、私の中で閉じているわけではなく、外側に開かれているということです。

 

〇私という感覚 

一人ひとりにとっては、他者との交わりの中で、私であり続けるということになります。

統合失調症は、「私が私である」ということに確信をもてなくなってしまうことで生じる病気ともいえます。

しかし、そうでなくとも、私という存在を当たり前に感じられなくなり、失われることもあるのです。あるものに対して、私のものと私のでないものという区別がなくなるのと同じです。

 

〇血縁以外の関係 

考えてみれば、家族というのは、血縁関係だけではありません。一緒に生活をしていく年月のうちに成り立っていくものです。

日本では、家を内として外と区別してきましたが、この家とは、血縁だけではなく養子なども受け入れていました。かなり開かれていたわけです。

ベーシックインカムの反対論で、親が仕事で稼いで育てる、育てられたの関係から言及するものがありました。確かに誰かが苦労して育てたところで結ばれる関係は、貴重に思います。

今後、生殖医療の発達からも、多様な家族形態が現れてくるでしょう。

家族に限らず、人間の関係は、ますます複雑になっていくでしょう。

 

〇分人 

どの私を私というのかという、アイデンティティーの問題も出てきます。

これは、近代の個人主義的な人間観から問われてきました。

個人というのは、インディビジュアル、つまり、分割できるというディビジュアルに、否定のインをつけたことばです。

それは、キャラや仮面でなく、分人というふうに考える方がよいのでしょうか。

分人と言ったのは、作家の平野啓一郎です。

そのあたりを深く考えなければいけない時期にきているのでしょう。