大学入学共通テスト問題が、試験中に外部に流出したとされる件。今回のは、本当に普通の女子生徒が、問題を解いて送る前にどう考えても疑えたはず東大生に(彼を非難する意図はありませんが)依頼して、結果としてのカンニングをしたという、
ITネット社会ならではの事件です。、、みたいな言い方は、十数年前にもされたと思います。
こんな普通に簡単にできるようなことが野放しにされていたわけで、この間、何百人かの、より賢く緻密で悪意を持った不正が多く為されていたことは容易に察せられます。
海外であればこんなことを想定もせず対処もできない管理側が悪いというようなものでしょうが、おおらかな日本の社会においては、本人が後日、後悔するだろうし、さもなくばお天道様の罰が当たるよ、くらいのもんでしょう。
しかし、そういうことができないくらいの、セキュリティーや対策をしておくのは、大人の役割と思うのです。カンニングを見逃してくれる先生は、そのときは人気があるかもしれませんが、決して尊敬されることはないでしょう。もちろん例外のケースもあり得ますが、本日は、日本の受験制度を立てて述べてみました。
悪事でも、本人、共犯か被害者か巻き込まれた人、管理する人、どのようにみるのかによって、いろんな境界が生じます。そこは、文化や風土とも深く関わるのです。
てなことで。
〇区別で生まれる差別
フレドリック・バルトは、エスニックバウンダリー論を提唱しました。
バウンダリーとは境界のことです。文化が違うから異なる民族になったのではなく、隣の集団の間に境界線を引くことで、その差異を強調し、類似した要素が無視されたり排除されるようになって、異なる民族が生まれてきたと考えました。
近くて似ているからこそ、お互いに差異を見出すようになったのです。同じでくくられたくなかったということです。
〇つくられた歴史
国民国家は、近代化の過程で、共同体として作り出されてきました。メディアの発達、国語の成立、辞書の編纂、国民教育の統一などによって、つくられ支えられてきたのです。
そうしてみると、伝統や国民性などというものも、さほど長い年月を経たものではなく、最近になって成り立ってきたもの、また捏造されてきたものともいえるでしょう。
歴史的に辻褄の合うように、その連続性を埋めようとしてきたわけです。
北京オリンピックのときの、中国4千年の歴史の説明は、まさにそれを思い起こさせるものでした。それに対し、東京オリンピックは、どうだったでしょう。どうも私には今、思い出せるものがありません。長野は浅利さんがやり過ぎた分、思い出せます、零下の開幕式の力士たちとか。
〇民族カテゴリ
明治の頃の日本人の暮らしは、今と全く違っていました。しかし、もう、そのときと生きている者は全員が入れ替わっているわけです。
それでも日本人、日本文化、国体は、ずっと続いてきたと私たちは思い込んでいるわけです。
グローバル化しているからこそ、日本人というカテゴリがあるわけです。世界中が日本人になってしまったりアメリカ人になってしまったら、もうそのカテゴリはなくなってしまうわけです。
関係が集団を作り出します。集団の違いがあることで、その集団の一貫性を得られていくということです。
〇歴史と自分
歴史を学ぶのではなく,自分を目覚めさせることに意味があるのです。メンタリティーを覚醒させるということです。
日本(大和)の神、宇宙を、神社仏閣、自然、伝統、文化のものなど、スピリチュアルという言葉でなく、こうした事物で直接、向き合ってみるとよいと思うのです。