見えなくとも、聞こえてくるものがあります。
姿ではなく、ことばのニュアンス、音、匂いなどで得られるものなどです。
見るのではなく聞くこと、語りかけてくるものを聞くのです。
それが観ることです。観音様のように、音を観るのです。
「声とことばと視ること」
見ることができるものは、見た時点で、そこで一つの視点に拠ることになります。ことばと同じです。それは、ときにその対象を狭め、軽んずることになります。
どうしても、眼はまとめてしまう方向で働くからです。
よほど注意をして、それに抗う声を聞こうとしないと、私たちは簡単に物事を把握してしまったつもりになってしまうのです。
「ことばとコミュニケーション」
視るのでなく、場に入り込むこと、郷に従ってこそ、みえてくるもの、それが相手です。その体験は、相手の場のようでありながら、自分のことであるのです。
こうして、ことばにしていくのもまた、他人のなかに自らを見い出すことにほかならないのです。そう思いつつ、続けているので、言葉でなくニュアンスを受けとめていただければ、と思います。
「声が先」
「光あれ」という神の声で光ができたということです。その声が先なのです。