何事も脳の病気や傷や食べ物や環境のせい、遺伝子のせいのように思っている人がいます。それは、言霊のせい、前世に犯した罪で幽霊が出る、と言うのと変わりません。脳生理学などで、そういうことを確信していく方に情報を集めていく人をみると、中途半端に学んだことで信じることの怖さを感じます。運命がすでに決まっているとしたら、歩み出すよりも諦めてしまいかねないのではないでしょうか。
日本人は、負けびいき、無念を晴らすというのを好みます。明治維新以降、主君から国家への忠誠に変わり、戦後、悪いのは日本の国、軍隊、戦争主導者、そして日本人という自虐史観が流行しました。すると、真逆の「悪いのは日本ではない」へつながっていきます。その前に、「悪いのは日本だけじゃない」の検討があると思いますが。
グローバル化と市場主義が導入され、なおさら格差が生じました。うまく行かないときは、何かのせい、誰かのせいにするのが一般化しました。
ちょいと近くでうまくいっている人がいると目障りなので、叩く。関係のない人まで参加して、“祭り”で鬱憤を晴らしているのは幼いことです。
学生による大学の授業評価は、後の席ほど厳しいと言います。熱心でない客ほど文句を言うのです。
評価されずに評価する側にまわろうとする、自己責任とされぬように他者を責める。いつの間にか、二極化していきました。自分が悪い、いや他人が悪い、社会が悪い、そんな二分するものではないのです。
いじめの構造は、責められる相手がいるうちは自分が安全、隠れるところがないので、他の誰かを責めないと責められる。やられるまえにやる、これと似ていませんか。