◯コロナ禍のなかで
コロナ禍で、私たちは、ことばを発すること、声を出すことを制限されました。
そのために、zoomなどオンラインで、声と映像によって、コミュニケーションをとることになったわけです。
そのメリットは、大きなものでした。
いつでもどこでも何人でも集い、情報交換できます。
ですから、たちまち世界中に普及しました。
そこに写っている相手が、そのうちアバターとなって、
メタバース空間でやりとりするであろう未来に、急速に近づいたのです。
オンライン飲み会も行われました。
居酒屋の匂いのなかで和気あいあいと本音を語り合うのとは違い、
私は補助的なツール感に抵抗を感じてかあまり楽しめませんでした。
システム上、話が、一対多になるわけで、、、。
しかし、こういう違和感も慣れていくに従い、なくなるだろうと思いました。
かつて電話を通じての会話も、慣れるにつれ、電話の受話器を感じなくなったように。
そこで電気変換されたとはいえ、声には身体の個性が含まれています。
少なくとも、画面で縮小された映像よりは、リアリティを担保しているのです。
ここで問いたいのは、それでいいのか、
いえ、それをどう捉えるのかでしょうか。
コロナ禍のなか、イタリアでは、アパートの窓を開けて人々が歌いあったといいます。
そうせざるをえなかったのでしょう。
マスクを強要し声を出すのを禁ずるのは人権侵害と欧米の人たちは、主張しました。
禁じられることもないのにマスクをつけて、一斉に自制する日本人とは、なんたる違いだったのでしょう。