◯消えゆく人物とその理想
いつも、世の中は、大体は、そのまえに生きた人の思いの結果です。
世の中をよくしようと思い、がんばった人が、前にいたから、
私の世代は、世界中をけっこうよい条件で巡ることができました。
円が強かったのは、日本人が仕事でがんばった結果でした。
それが今や、目標としたい人物も理想もみえにくい状況です。
スポーツや文化ならまだしも、政財界では絶滅状況です。
ヤクザ社会が義理人情を欠いて崩壊していったのと時を同じくして、
日本社会全体で崩れていっていたのでしょうか。
先週、三年前にできたセイコーミュージアム銀座に立ち寄りました。
大震災にも、自社の苦境をものともせず、復興援助を惜しまなかったのです。
思想、哲学があったのです。
次の商売道のことばも、王道でしょう。
<「安売りに巻き込まれず、品質を良くして利益の出る、やや高い価格を設定する」
(雑誌「実業之日本」の寄稿文「正直の二文字が発展の機会を作った余の実験」から抜粋)>
<時計商になると決めた金太郎は、日本橋の亀田時計店に移り、2年後、店の都合により上野の坂田時計店に入店し、時計の修理や販売を学ぶ。ところが、店主が他の事業に失敗し、店が倒産してしまう。店を去るにあたり金太郎は、同店在店中の貯蓄をこれまでに受けた恩への返礼として主人に差し出した。店主は感激し、このことは後に美談として残ることになる。
「私の店が開業後大層都合がよかったのは、横浜の外国商館が私の小さな店を信用して、何ぞ斬新なものとか、何ぞ珍しい時計でも来ると、他の店よりはまず私の店に売ってくれたということである。こういう次第で、私の店に来れば、比較的斬新な品もあり、品物も豊富にありということで、客足が多くなったのである。・・・(中略)・・・どうして外国商館が私の小さな店に多額の商品を融通してくれたかというと、つまるところ、支払をキチンとキチンとしたからである」
当時は江戸時代以来の「盆暮れに清算する」古い商習慣が残っていて、約定を守らない商店も多く、外国商館からは不評をかっていた。そんな中、金太郎は内外人の区別なく、どんなに困難な時でも、取引の約定を守ったことで、商館・販売店の間で服部時計店の評判が高まった。
金太郎は少年時代から向学心が強かっただけに、年少従業員の教育に熱心であった。精工舎創業まもなく、工場内に寄宿舎の制度をもうけ、熟練工の養成に着手する。1900(明治33)年には舎内に夜学制度をもうけ、国語・数学・習字を学ばせている。また、1918(大正7)年頃には服部時計店本店内に旧制中学校に近い内容の夜学制度を設けている。さらに、1927(昭和2)年には大阪支店内に服部商業学校(4年制・夜学)を創立している。
震災前に顧客から修理のため預かっていた時計約1500個が焼失してしまうが、金太郎は新聞広告を出し、申し出た顧客に同程度の新品をもって返済し、大きな話題となる。>
関東大震災100年 復興へ渋沢栄一が結束させた経済人|日経BizGatehttps://bizgate.nikkei.com/article/DGXZQOLM262VP026082023000000
#服部金太郎https://museum.seiko.co.jp/seiko_history/founder/
セイコーミュージアム 銀座 https://museum.seiko.co.jp/about/