fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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自死の権利 他人のために生きられるか

半世紀、生きたあたりから、親世代だけでなく、先輩から友人、知人にも、この世でお別れすることが増えていきました。闘病や事故も身近になりました。

コロナ禍で知らされぬまま、別れている人もいることでしょう。

安楽死尊厳死、まとめます。

 

◯延命治療

2020年、NHKが、安楽死の問題を取り上げたときの延命治療のケースを思い出しました。

ALSに苦しむ男性が、安楽死を希望するのです。

それは、それ以上の苦しみの持続から逃れたいこと、家族にも負担を強いたくないことがありました。

しかし、彼の家族が、彼が生きることを強く望みます。

最後には、家族のために生きようと、彼が決心を翻したのです。

ただ他人のために生きる、そのための苦しみを自分が引き受けるのです。

 

このとき、私は、「自分は延命で耐えるだけの勇気、覚悟はない」

という感情を持ち、

「その人はすごい、自分にはできない」と思う一方、

やはり、理解しがたい思いにも囚われました。

本人でも家族であっても、この決心は、、ということです。

 

私も一昔前なら人一人分の長さにあたる人生を生き、

地球のあらゆる地域も、2000年ほどの日本の歩みも、

かなり身近に感じられるようになっていきました。

そうなるにつれ、

逆に、時空の無限さに感じ入り、

自分の生というか、我への執着は、薄れていったように思えます。

 

この番組での決心とやらは、ずっと、心の中を引きずっていました。

そして、あるとき、腑に落ちたのです。

「自ら命を断ちたいときでも、

誰かが生きてくれと望むのなら、

どんな状態でも、そのためだけに生きることは、できるかも」

「もしかすると、どんな状態でも、生きてもよいと思うかもしれない」と、

不思議な思いでした。

家族のためならということでなく、

見知らぬ誰かのためでもよいとまで感じたのです。

それは、生への執着とは、むしろ、対極の感情です。

 

もちろん、本当にそうなったらどうかというのは、

実のところ、わかりません。

わかりようもないというので、終えます。

 

 

 

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