◯向きあうということ
紀里谷和明さんとマツコさんの二人の会話から交互に抜粋。
文責、私です。
<頭が良いという価値観がもてはやされている。
AIは、それすら無効化してしまう。
AIに比べたら皆が馬鹿だから。
何が人間に必要とされるか、
どれだけ人に優しいか、どれぐらい人に愛されるか。ー
クリエイティブがもういらない。
TikTokが人々の中心に来るとは、コンテンツの中心。
大金、技術力、センスを融合させた映画が、TikTokの動画でよくなってきている。ー
それに関わりたくない。ー
耳障りなことでも芯食っている
(と言われ、それなりに認められた時代から)
今は耳障りなことが必要でない。ー
今の人たちは向き合わない。
向き合っているふりをする。結局それもお芝居で、お芝居であることさえ気づかない、
仮面をかぶっている、みんな。
それが、すごい嫌だ。
そこに対してもいろいろ言ってきたけど、それすらも言ってはいけない。
そうなると社会と関わる理由がない。
で、今、海外で暮らしている。
ジャングルみたいにどこに住んで、
フルーツ、野菜、鶏の卵といった、自然の中の生活。海外の山奥。
メディアにもう露出しない。
本当に必要なものが何かを考えて生きれば多くのものを必要としない。ー
(マツコ会議5/6)>
、、みたいな会話で、似ているなと思いながら、聞いていました。
確かにある程度、やってきたら、リセットして、
自然な生活、原点回帰、プリミティブな生活など、
今までやってきたことを手放して、
異なる趣味や創作活動、あるいは晴耕雨読などに打ち込もうとする人は少なくないです。
まわりを見ていても、第二、第三の人生は、
会社で稼ぎ、家族を養うという人生が、一山超えたときに、訪れるようです。
定年、離婚や伴侶の死など。あるいは、自身の病気や怪我や精神的な何かでも。
この話、
「グレースの履歴」などにつなげて触れたいです。