本日から、外国人観光客、添乗員付き団体ツアーだけですが、受け入れ再開となりました。
◯外国語学習における違い
日本語を学ぶ外国人にとって、日本語の音声は、母音も子音も少なくて、容易です。少ないために同音異義語が多くて混乱することもあるようですが。難関は、漢字です。
つまり、聞くことと話すことは簡単でも、読み書きが難しいのです。もちろん、漢字の読み書きまで、できる外国人も増えていて、ときに、びっくりさせられますが。
この点、私たち日本人が外国語を学ぶのとは反対です。今は音声学習が同時にできるようになり変わりつつありますが、以前は、読み書き中心、いや、読解がほとんどでした。欧米の知識吸収のための翻訳がメインだったからです。
なによりも、日本語、いや、国語の時間、私たちもまた、ほとんどを漢字の習得や文章の読解に費やしてきました。どのように伝わるように声で表現するのか、そういうことについて、話したり聞いたりするような授業は少なかったでしょう。
詩や古典や漢文においても、正しく解釈するのが中心で、どのように声で表現するのか、耳で味わうのかでは、なかったのです。英語の授業も、私たちの頃は、それに近かったのです。
◯言文一致♯
明治になると、言文一致運動は、まず、書き言葉の上で、小説などで取り入れられてきました。日本の場合は、ずっと、書き言葉と話し言葉が大きく違っていたからです。
時代を遡ると、漢文調とかな文字調、公式文書と手紙との違いです。
話し言葉でも、庶民の使う言葉と、演説やスピーチで使う言葉とは、全く違ったのです。日本では、説教はありましたが、演説、スピーチは、それまでなかったのです。演説という言葉を発案したのは、福沢諭吉たちでした。
演説は、そこから、演歌につながります。演歌は、元は、演説歌だったのです。
◯演劇の言葉
日本人が、劇を演じるときに、新派♯はともかく、新劇♯では、当時としては、特別な言葉を用いたわけです。新しく海外から入ってきた用語などを翻訳した戯曲などの言葉です。
そうした言葉で演じられたものは、西洋的な発声の影響を受け、演劇の役者として鍛えた声で、明瞭ではっきりと遠くまで伝わるものでした。浅草オペラと同じようなものです。
日本には、邦楽や歌舞伎などといった、大衆芸能がありました。平家物語などの語りものや香具師などの口上もありました。しかし、そうした口調は、使われなかったのです。言葉が新しい日本語であったので、口調もそういったものになりえなかったのです。音楽と同様、舶来ものを上、庶民のものを下のように、見なしてきたのです。それが文明開花というものでした。
◯放送の言葉
アナウンサーの報道のための言葉は、正確な高低アクセントに明瞭な発音、滑舌のよさ、一定のテンポと、放送を通じて、日本人の公の場での話し言葉と話し方の基準となりました。
それは、定められた基準に合わせるゆえに、個性を優先せず、誰にでも同じように、個人的な感情を排除して、正確に読んで伝える報道の条件に適ったものです。
これもまた、西洋の影響下に、つくられていった言葉といえます。アメリカの放送スタイルが参考にされたようです。
そうした言葉は、アナウンス、電話や受付の応対、チェーン店の店員の接客、司会などにはよいのです。しかし、個人商店や飲み会など、親しむ場には、向きません。バラエティーや演芸などになると、堅苦しく、笑いなどはとりにくいものです。
敬語などの日本語の特徴と並び、日本人の言葉をややこしくしていくのですね。
♯演説
福澤諭吉と慶應義塾関係者による造語である。福澤の出身地である旧中津藩で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、「舌の字は餘(あま)り俗なり、同音の説の字に改めん」(『福澤全集緒言』より)とした。
1874年6月27日、第1回三田演説会がひらかれ、会員福沢諭吉・小幡篤次郎ら14人が演説したのが、初めとされる。
仏教用語での演説 ニルデーシャ(निर्देश、サンスクリット語)の訳で、教えを演べ説くこと。法(真理や道理など)を人々にわかりやすく説き明かすことを言う。 以前は、こちらの意味で使われていた。
♯言文一致
日常に用いられる話し言葉に近い口語体を用いて文章を書くこと、口語文というが、話した通りそのままに文章として書くという意味ではない。
文語は、平安時代までに完成した。中世以降、次第に話し言葉との乖離が大きくなった。
明治時代には、文学者から言文一致運動が起こった。坪内逍遥に刺激を受けた二葉亭四迷の『浮雲』(1887年)は、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたという。
ロシアの文学作品を翻訳した文体も、文語からの離脱の試みである。
山田美妙における「です・ます」調の試みは、後世へ大きな影響を与えた。
新聞や雑誌記事、戦地レポート、裁判の傍聴記録など、特に速記もので新文体が試みられた。
自然主義文学の運動も、普及に一役買った。
法律の言語は、戦前では文語文、戦後は口語体となった。
♯演歌
19世紀末の自由民権運動の公開演説会で政治を風刺する歌(プロテストソング)として「演説歌」が生まれた。ダイナマイト節や川上音二郎のオッペケペー節がある。1920年代「船頭小唄」など演歌師が活動していた。
20世紀になると、題材は、社会問題の風刺に、ヴァイオリン伴奏が導入されるなど、芸人の要素を強める。政治運動を生業とする壮士から、書生によるアルバイトに移行し、商業的になる。しののめ節、ラッパ節、ハイカラ節など。
昭和初期には、レコード歌謡の登場で、演歌師の活動に打撃、盛り場で「流し」をするようになる。
♯新劇
ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇。旧劇(歌舞伎を指す)、新派(書生芝居の流れ)に対する言葉。
翻訳劇を中心に始まり、歌舞伎や新派の商業主義を批判し、芸術志向的な演劇を目指した。
明治時代末期、坪内逍遥の文芸協会と離脱した島村抱月と松井須磨子の芸術座、また小山内薫・市川左團次 (2代目)の自由劇場などの活動に求められる。
築地小劇場に続く劇団として文学座(1937年)や俳優座(1944年)。
その後、文学座、俳優座が復活。劇団民藝(1950年)も創設。
劇団新派(大阪で1888年)や関西芸術座(大阪で1957年)など劇団の創設。
その他、劇団青年座、演劇集団円、劇団昴、劇団四季などが、主な新劇団体。
1970年前後の「アングラ演劇」ブーム、1980年前後の「小劇場」ブームを経て、「新劇」という呼び名は、古典的な演劇活動の表現となっている。
♯新派
1888年12月、角藤定憲が大阪で「大日本壮士改良演劇会」を起こして、不平士族の窮状を訴えた壮士芝居を始めた。新派の発祥である。
1891年3月には、川上音二郎が堺で「改良演劇」を謳って書生芝居を始め、自由民権運動の広告塔として評判をとってゆく。
「旧派」の歌舞伎に対し「新派」と称された。
第二次世界大戦を経て、戦後複数の劇団が「劇団新派」に統合した。
庶民の哀歓・情緒を情感豊かに描いた演目が多い。
現在も、二代目水谷八重子、波乃久里子、紅貴代らが、新派を支えている。
歌舞伎界では、五代目坂東玉三郎、十五代目片岡仁左衛門、十八代目中村勘三郎らが新派の舞台に出演している。
2016年1月の初春新派公演から市川月乃助が入団し、同年9月に「二代目喜多村緑郎」を襲名。2017年1月の初春新派公演より二代目市川春猿が「河合雪之丞」に改名し入団する。(以上、Wikipedia抜粋)