◯方言特殊詐欺とエトス
< 熊本県警によると、風邪声のような熊本弁で現金を要求する電話で、10月だけで少なくとも89件、うち5件で計1950万円がだまし取られた。卒業名簿が悪用されたよう。>
一件あたり平均しても、約400万円という高額です。
特殊詐欺で方言が使われるという新たな手口です。親近感を狙ったものでしょう
自分たちの属する共同体という意識で、思わず同胞として信用してしまう例です。
声の判断力、磨きましょう、と繰り返してきましたが、もっと簡単な対策は、やり取りが長くなる前に、電話を切って、こちらから本人に確認すればよいだけです。
サイトについては、メールで送られてきたURLでなく、自分で検索したり登録したところからアクセスすることです。
◯想像のナショナリズム
村落などのコミュニティーで、自分たちが仲間であることはわかりやすいのですが、国民の場合は、国家というのは、想像力で担保されているだけです。
ネーションとは、ナショナリズムと直結するわけです。それは近代の現象で、文化です。
アインシュタインは、「ナショナリズムは、子供の病気、人類の麻疹である」と言いました。
◯アンダーソン「想像の共同体」としての国家
想像の共同体#としての国家は、小説の誕生をその起点とするそうです。小説ではmeanwhile=この間、つまり、あるところで何かが起きたときに、同時に他のところで何かが起きていることを俯瞰する視点を、読み手は得ていくわけです。それは、ある意味で、神の視点です。
演劇では、スポットとして切り取られてきましたが、平田オリザさんの演劇などでは、同時多発的に事が進みます。
国はまた、1つの共同体として、国民は平等である、国の主権は神や王のものでなく国民に帰属するものと、想像されるのです。国民がその理想を実現し、主権を持って国家制度を持ったときに、国民国家=ネーションステートと呼ぶわけです。そのなかに共通性があるわけではありません。
なのに、それは、新しいのに古い存在に見え、政治的影響力を持つのに哲学的、思想的なものを持たないもの、◯◯イズムがないとされます。それが、国の意識=ナショナリズムです。
そこでは、国民は、限られたものとして想像されています。つまり、世界中が1つの国になることはないということです。
#現代口語演劇理論
<平田オリザの演劇の特徴として「ときに聞き取れないようなぼそぼそした声で喋る」「役者が客席に背を向けて喋る」「複数のカップルの会話が同時進行する」(同時多発会話)など。登場人物は、淡々と会話を続けていく。これは、芝居がかったセリフではなく、日常的な話し言葉で舞台を演出する方法を体系化した理論である。
日本における近代演劇(新劇)は、西洋演劇の輸入と翻訳に始まったもので、日本語を離れた無理のある文体、口調と論理構成で行われ、それにリアリティを持たせるため俳優の演技も歪んだ形になったのを改善するための現代口語演劇理論といえる。
1980年代に小劇場の絶叫型の劇に対して、「静かな演劇」と称された1990年代の小劇場演劇の流れをつくった。
チェルフィッチュの主宰者岡田利規は、平田オリザの提唱した現代口語演劇理論をさらに現代的に推し進め、「超口語演劇」と呼ばれる。> (Wikipedia参考)
#想像の共同体
<ベネディクト・アンダーソン。ナショナリズムの起源に、国民国家が成立する以前の段階に着眼し、宗教的共同体と王国が社会の組織化のために果たした役割を指摘し、国民とは、これらのシステムが衰退するにつれて登場した新しい共同体であるとする。
これを推進したのは、資本主義経済の成立、印刷を通じた情報技術の発展である。
出版産業は国民意識の基盤を提供し、想像の共同体を可能とした。外国語は言語比較研究を可能とし、ナショナリズムを育む文化的基盤となった。
ナショナリズムは、言語によって想像された共同体の一種の形態である、人々が、国民に対して特別な愛着の感情を持つ理由として、国民という言葉には、自己犠牲を伴う愛情を喚起すると説明している。1983年。>(Wikipedia抜粋)