fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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言論の自由と民主化の原理 衆院選公示

衆院選が公示され、1051人が立候補しました。人数は、小選挙区比例代表並立制以降の25年で最少、20〜 30代は10%に達していません。女性も20%以下、70歳以上がこれまでで最多。日本の政治は、多様化にも若返りにも逆行しているのです。

各党の政策を見ても、受け狙いの分配策ばかり、どう成長させるのか収益を上げるのかが、財源が示されません。高齢者向け政策なのです。つまりは、選挙前からお先真っ暗と言うことです。

お金をばらまくだけなら政治家など要りません。彼らの報酬や経費をばらまいた方が有効です。ばらまきは、既に評判のよいところをさらに儲けさせるだけで、最も必要な弱者は救われないのです。また10万円が配られたところでどうなるものでしょうか。政治家や大富豪の金でなく、私たちの金ですから、将来の私たちの負担が増えるだけです。震災の負担を今も分担させられてますが、この2年の負担は、どうするのでしょうか。今の若者の将来につけるとは誰も言わない。国民も舐められたもの、というか、政治家の志も落ちたものです。

若い人も立候補しろとまでは言いませんが、選挙には行き、少しでも、日本が食い潰されてしまうのを防いだほうがいいとしか言いようがありません。自分が立候補しなくても、自分たちにとって必要だと思う人を見つけ、サポートすること、頑張ってください。

このままでは、最悪の民主主義国家となってしまいかねません。

 

自由について語ります。

本当のことをいうと、言論の自由などといっても、

本当の自由などは、どこにもはありません。

もし、あったとしたら、自分が自由に考えて、自由に判断して、自由に言った

などと、自分で思っているだけです。

だからといって、自由に言ったり、自由に振る舞ってもよいことにはならないわけです。

 

言論もまた、公である共同体にとってよいのかどうかで、

考えるべきものになりますから、

個人の好き嫌いや損得で、自由に言っても、それは言論になり得ません。

 

自由に言うことがよいのでも、自分にとってよいものを

言えばよいのでも、ないからです。

 

民主制を元とするコミュニティで生きていくのであれば

それは、「~に関わらず~する」ということです。

私個人としては反対でも、つまり、わたしには自由でないとしても、

私たちの決定したことは受け入れる、つまり、不自由に甘んじるということです。