fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

「モチベートがかからない」とか「やる気がでない」という質問をよく受けます。私は、人との出会いや映画、音楽、本などに救われてきました。なかでも、人のことばは、大きな意味をもちました。これからは、そういうことを思い返しながら、生きていくのに基礎となった一般教養や歴史、データなどのピースを散りばめていきます。ご興味があれば、そこからググってください。あなたがこの社会と結びつき、生きていくエネルギーとなるのに、少しでもお役立ちできたらうれしいです。[2021/08]

「スパルタ教育」 2012/07/05

監督(西河克己)も製作者も、作り上げるなり逝ってしまったという映画「スパルタの海」を観る。戸塚ヨットスクール、代表の戸塚氏を伊東四郎氏が好演、そういえば、昔、うちの父の書棚に「スパルタ教育」という本があったが、その著者の石原慎太郎現知事が推薦している映画である。この原作者の上之郷利昭氏からは多くを学ばさせていただいたが、2006年に逝去された。戸塚氏が逮捕され(1983年)スクールが一時閉鎖されていたのは、20年前になる。

 そして世の中は、体罰厳禁、ゆとり教育の方へ流れていった。この映画の封切のあいさつに戸塚氏を久しく見た。時代は巡るものです。

光の雨」(連合赤軍浅間山荘まで)から「ムルデカ」(インドネシア独立運動日本兵)まで、「体罰」=「暴力」(これが=とは私は思わないが…)といわれる行為は、日常に描かれている。武士の世の中、戦さ、戦争と、人間の歴史において、多くの人間は、死と隣り合わせに生きてきたのだから、死という絶対的な個の終止符をもって、生は相対化されていたのだ。となると、殴る、蹴るなどは、殺す、死ぬということからみると、まだ生易しいことだったのに違いないでしょう。

 私は以前より、日本人の戦時の非道行為といわれるものを、日本での上官―部下での関係ににみて、日本人は日本人にもひどかったし、それゆえ、それが戦後の一斉アメリカ人崇拝に転じたことに一役買ったと思っている。私たちまで日本へのアメリカの骨抜き戦略に、ムチのソ連、旧日本軍を対比させて、腑抜けになってしまったほどなのだ。

ただし、日本の高度成長を担ったのは、そういう中で鍛えられていた兵隊だし、戦前教育を受けたリーダーたちだった。日本が極右から左にゆれて、また右へ寄ってきていることで、このようなことを言うわけではない。「SAPIO」と「週刊金曜日」を続けて読んでいる私には右も左もなく(今の右派、左派の定義は不毛ゆえ)今日の現状にどう対処し、明日にどう活かすかということなのです。

私の現場は今の日本、身近なところでは研究所の内外で起こっていることへの対処です。パワハラがフィジカルな暴力よりもメンタルなもの、ことばの威嚇として問題にされているのは、とっくみあいのけんかさえ日常からなくなった今の日本においては、職場では、ことばでの暴言としてとりあげられるからでしょう。ことばでは何を言ってもよいが手を出すべきでないというのは、もはや戦後の団塊世代からの、あるときまでの考えであり、現在は、ことばでも気をつけなくてはいけないのです。肉体の使いすぎの過労死に加え、メンタル面での現代うつ病…ほか、病名は多くて書ききれないですが…。

かつてスポーツ界、野球や相撲は、強いところほどスパルタ教育だった。芸の世界も同じ、子弟制度でも、体育会でも、会社でも、皆似ていた。肉体に加え、精神を鍛えなくては何事も乗り越えられず、成長もしないからです。

 それが、自らの命をもって自分の家族、村、町、国を守るという使命を失ってくるのです。それでも昭和では、国のためが会社や家族のために置き換わり、擬似的に同じシステムが働いていたのです。しかし、当時の日本人の第一の目的であったモノの充足が満たされるにつれ、緊張感を失っていったのです。

 今の世の中を動かすリーダーは、二世、三世です。スポーツ界でさえコーチよりも親(ときに、その競技では素人の)が名選手を育てています。そういう親は、戦前の教育に似た考え方で、スパルタ教育中心である。他人のコーチが以前のように厳しくできないのを、親子ゆえ、そして、そこで甘えを許さないほど絞れる父性があってこその一流のベースづくりがなされています。(一方で、厳しすぎる教育が、犯罪者を生み出す一因になっているという人もいる)

 

 私が2000年からはメンタルの問題、2005年からはフィジカルの問題に対処せざるをえなくなって、いろんな専門家に学ばせていただくようになったのは、そういう対処への結果です。

 

 打てない選手にフォームを教えるコーチと「根性入れてやらんか」と怒鳴る親父とでは、どちらが成果が出るでしょうか。今の人はコーチのやり方と考える時勢であるが、私からみると9割の人には、親父の根性論の方が必要に思えます。科学とか理論とか中途半端なものに頼って(まるで19世紀だ)人間の体のもつ完全さを信じ、感覚や意識を目一杯に自覚し、向上させようということをしないからです。技術などは、そのあとに逃げやトリック(それも本番には必要だが)に使うものにすぎないのです。

 ビジネスマンも「○○のうまくいかないのは声の問題」といって、いらっしゃるようになった。私は声だけの問題でないことはわかるが、声から踏み込むのは分かりやすいし、効果的ですから、拒むことはしません。

自信があればよい声が出るものだが、よい声を学ぶことで自信がもてることも多いものです。芸人や歌い手、役者の志望者も同じです。充分にやっていないから相手に通じないだけで、技術の問題以前でもあるのです。

それなのに、あれがどうだ、これがどうだ、といちいち細かく聞くのは、私は、その人にも私にもコミュニケーションのトレーニングになると思って、全て受けているが、早く、そんな細かいことでなく、大きな視野から本質的な問いを発するようになってほしいと思っている。

研究所は、スクールの役割も含んでいるから、そういうシミュレーションで作りかえて気づいていって欲しい。どんなに時間がかかっても構わないと思います。きっとこれまで厳しい基本、師や環境に恵まれなかった、というより知らずにいたり、あきらめたり、自分のわかる世界に、わかる人としかいなかったから、気づかずにこなかったのだから、ここにいるうちに気づいて欲しいと思っています。

 まともなオーディションで、技術などみられません。その場しのぎで人を採りたいなら、そんなこともあるが、(日本ではけっこう多いが)その人の存在が、いかに働きかけてくるかです。それはオーラのようなものです。それが採る側に届かなければ、客にも届かない。そういう人は人数合わせのためのエキストラでしかないのです。

私がトレーナーを採るときも同じで、私自身がレッスンを受けたいと思わないような気概のトレーナーには誰がつくでしょうか。(でも、そんなトレーナーでも日本では何とかやれるのは、技術とか理論とか、ノウハウを習いたい人が多いし、気楽に接しやすいトレーナーを求めているからです)

 私はビジネスの現場、パーティなどで5分話して要領の得ない人とは、親しく相談にのることはあっても仕事することはありません。よく「1時間欲しい」といわれることもありますが、それではあまりに鈍すぎる。その人自身にしか関心のないことをTVのようにプレゼンされても、です。私にプレゼンの仕方の評価をしろというなら別ですが…。「○○に紹介して」といわれても、私が紹介したくない人を紹介するとしたら、相手に失礼、借りをつくる、迷惑をかけます。いわれなくても紹介したくなれば紹介しているものです。相手を喜ばせることができるし、三方win-winの関係になるなら、しないはずがないのです。それは、技術ではありません。フィジカルとメンタルのベースをもった上での、仕事力の確かさなのです。

 相手のことを、相手に根掘り葉堀り聞かなくてはいけないとしたら、イマジネーションや察知力のなさで、相手の立場でものを考えられないことを、鈍感さといったのです。それゆえ、VIPの会談は5分、10分で終わるものです。(私は「感性の研究」で直観力=先見力と共感力)を感知力の上位において述べました。

 話の技術、内容よりも声の力がものをいうのは、仕込まれたフィジカル、メンタルの威力が伝わるからです。これこそが私がヴォイストレーニングを勧める理由の一つです。それで通じないうちは、仕事などしない方がよい。自分も鈍くなり、大きなチャンスを逃してしまいかねないからです。

(参考)女子レスリングオリンピック2連覇中の吉田佐保里選手と父の話です。中学校3年、選手権1ヶ月前に手首骨折、3本のボルト入れたのを、父がそれぞれのボルト2㎝分をけずらせに医者へ行かせ、テープを巻いて出場。片手で戦い優勝しました。

04.2ジャパンクイーンズカップ39度に点滴で出場させて、これも優勝しました。優勝よりも出場に驚く私は、まだまだです。