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評価の軸の立て方 「THE W」審査と「モニタリング」カラオケ大会

六本木駅、M1の広告で溢れていました。人生一発逆転の登竜門なのですね。

 

粗品さんとTHE W審査をめぐる評価の軸――2025年

以下、今回は、敬称略で。 

 女芸人No.1決定戦「THE W」は、女性芸人が正当に評価される場を提供することを目的として始まった大会です。そのTHE Wで議論を呼んだのが、霜降り明星粗品による審査です。2025年大会では、その評価に賛否両論を巻き起こしました。

 

<粗品は、「お笑いは競技であり、作品である」という立場です。THE Wにおいても、彼はネタの構造や完成度、再現性を最重要視し、会場のウケや空気感にはほとんど左右されない評価を行いました。審査コメントでは、「ネタの根幹が弱い」「ここが外れたときの保険がない」「この形は他の大会では通用しない」「ウケてはいるが成立していない」と、その場の反応と作品としての強度を切り離していました。「感動したから高評価」「盛り上がったから正解」とせず、「それは楽しいが、芸として強いのか」という問いを投げかけたのです。「正直、1秒も面白くなかったです」と語った場面は、この大会を象徴する発言として話題となりました。

粗品はその後、「大会の格を上げたい」「曖昧な称賛ではなく、本音で評価する役割を引き受けた」と説明しています。辛口批評ではなく、審査基準を明確化しようとする意図が読み取れます。>

 

<他の審査員は、異なるスタンスでの評価です。

川島明は、ネタの細かな完成度よりも、「今この瞬間にどれだけ観客と視聴者をつかんだか」を重視し、「今日一番、会場の空気を持っていった」「テレビで見たい力がある」といったコメントで評価、即効性やテレビ性を重視しています。

友近は、ネタの技術的完成度よりも、「その人にしかできない表現かどうか」「女性芸人史の中でどのような立ち位置にあるか」です。

粗品が「他人でも成立する構造だ」と評したネタに対しても、友近は「この人の人生がにじみ出ている」「唯一無二のキャラクターだ」と評価し、存在そのものに価値を見いだしました。

笑い飯・哲夫は、中間的な立場で「発想の飛躍」や「ネタに込められた思想」を評価し、「まだ整理できる余地はあるが、問い自体は非常に面白い」と可能性を残すコメントでした。>

 

◯批評家や芸人からの意見

<プチ鹿島は「THE Wは、思想や文脈も含めて評価される大会だ」と述べ、技術論だけで測ることへの危惧を示しました。

ラリー遠田も「粗品は審査基準を言語化した存在だ」と評価する一方で、「それが唯一の正解として押し付けられる危険性がある」と指摘しています。

野田クリスタルは「競技としてお笑いを見るなら、構造評価は避けて通れない」と粗品の視点に理解を示しました。

塙宣之は、「審査員には大会の色を守る役割がある。THE Wは多様さを評価する大会だ」と価値観の違いを明確にしています。

Aマッソの加納は、「女性だからといって甘く見られないのはありがたい」と述べつつ、断定的な物言いには慎重な姿勢を見せました。

福田麻貴は、「THE Wは人生を変える大会であり、ネタの強度だけでは測れない現実がある」と現場の実情を代弁しています。>

 

粗品による減点法・絶対評価と、他の審査員による加点法・相対評価との衝突ともいえます。粗品は「未来に残る基準」を持ち込み、他の審査員は「今の現場と文化」の保持としていました。

今年の大会は、THE Wが今後も文化的役割を重視するのか、それとも競技性を強めていくのか、その点を浮き彫りにしたと言えるでしょう。

エルフ荒川の粗品への物言い、司会の後藤輝基の仕切りが、私には印象的でした。

 

 

◯「モニタリング」カラオケ企画

 比較対象として、「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」(11/27)の〈コスプレカラオケ〉企画を挙げてみたいと思います。そのなかでも愛内里菜小此木麻里さんらの出た京まふでのカラオケ大会の審査です。この2人に審査員は、絶賛で評価不能、愛内は、400点の満点でした。

審査とは、審査員のスタンスとは、何を評価する行為なのかを述べたいと思います。

 

 「モニタリング」では、有名人が正体を隠して一般参加者の前で歌唱を披露し、正体が明かされた瞬間の驚きを含めて、楽しむことが主眼となっています。

歌唱技術を細かく採点するものではなく、「うまいと感じたか」「感動したか」「その場が盛り上がったか」といった体験価値での評価です。

 審査とはいえ、競技ではなくイベントであり、加点法で感情優先です。参加者や視聴者が楽しい時間を過ごせた時点で成功と見なされます。「審査が誰のためにあるのか」という点も決定的に異なります。

モニタリングの評価は、視聴者とその場にいる人のために存在しています。

 

まあ、2025年のTHE Wは、バラエティにおける審査の意味を改めて考えさせる契機となったとは言えるでしょう。

 

 

 

 私は、歌唱や芸に対して、粗品と同じ立場であり、それは、育成の場であるからです。特に歌唱での審査、その競技は、お笑い以上に、日本では、あいまい、好き嫌い、受けだけで決められているからです。しかも、プロの誰かに似てればうまいという低基準。

 一方で、かつて、ここでのワークショップやライブに関しては、その視点を持ちつつも、ビギナーラック的な新鮮で生々しく勢いのある場をぶち壊すものを期待していました。それゆえに両立しにくく、廃止せざるを得なくもなったのです。

 この国での養成とプロデュース公演の両立の難しさは、一言では語れません。活躍の場を広げるか、作品の質を評価するのか、この二つは、本来、作品ありきなのに、寛容な日本では、おもしろければよい、客受けと客の数でみられてしまうからです。

 

 この「モニタリング」の番組は、何度もここで私が紹介している一方で、そこでの透明カラオケBOXの歌唱には、ほぼ関心外です。点数取りゲームの域を出ないとみています。歌うまを競う、その歌うまやなんでもウマという客に、興味がないからです。

 このモニタリングという番組で、プロとカラオケチャンピオンの絶対的な違いを知るのにはよいと思っています。なにより90点以上の歌唱での評価については、容認できないからです。

 90点までは、カラオケ採点で勉強するのもよいが、そこからは離れるように言っています。もちろん、このアドバイス、カラオケを楽しむだけの人は、対象外です。

 

マチュピチュ