「私は真珠湾攻撃で“捕虜第一号”になった」 酒巻和男さんの生涯
<真珠湾攻撃に『特殊潜航艇』と呼ばれる小型の潜水艦で出撃し、ただ1人生き残って“太平洋戦争の捕虜第一号”となった日本海軍の軍人がいました。過酷な環境の中を果敢に生き抜き、帰国後は日本の戦後復興を支えた男性の軌跡は今の私たちに何を示しているのでしょうか。NHK2021/12/8>
酒巻和男さん、彼は戦時中、捕虜であることを日本軍から隠され、「九軍神」からも外された。戦後80年を経て、出撃地・三机湾に10人全員の石碑が建てられ、ようやく戦友と再会を果たした。
彼は捕虜生活でアメリカの合理主義を学び、他の日本人捕虜たちに「身を大事にし、日本の復興に協力しよう」と説いた。
「捕虜になっても、立派な日本人として敬意を持たれる存在に」と、礼儀や秩序を重んじる姿勢は、監視する米兵にも感銘を与えた。吹浦忠正氏は「彼がいなければ暴動で多くの捕虜が死んでいたかもしれない。まさに“救いの神”」と評価する。
酒巻は帰国後、厳しい世間の目にさらされるも、トヨタ自動車で働き、日本の高度経済成長に貢献。元部下の角田清さんは「技術よりも精神教育が印象的だった」とし、「人を大事にし、会社を愛することを教わった」と語る。
作家・山崎豊子は酒巻を「武器を使わない戦争をした人」と評価し、未完の遺作『約束の海』で彼をモデルとした人物を描いた。
晩年の酒巻は戦争について家族にも語らず、息子は「歴史は正確に語るべきだが、家族が語る必要はないというのが父の信念だった」と述べる。
一方で潔さんは「父はビジネスでも仲間とのつながりを大事にした。捕虜時代の孤独が影響したのかもしれない」と語った。
酒巻は捕虜という極限状態の中で、「生命を粗末にせず、生きてより有意義な人間になれ」と語り、吹浦氏は「彼は“戦後日本人第一号”だった」とその先見性を称えた。
<真珠湾攻撃で「太平洋戦争の捕虜第一号」になった日本人 酒巻和男の生涯|愛媛県伊方町の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/special/senseki/article_130.html>