fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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キャンセルカルチャーと朝田理論

東洋水産CMから考えるキャンセルカルチャーについて、追記しておきます。

 

<もし被害者性の訴えを無条件かつ一方的に「やさしく(優しく、易しく)」受け容れ、他者への暴言や私刑を行使する「免罪符」の様に扱うのなら、「被害者」は容易に「加害者」にも転じ得る。現に「被害」を訴えていたはずの藤井セイラ氏はじめCM非難側の発信には、「集団での仲間外れを呼びかける子どものいじめのようだ」「キモい、陰湿などの言葉は論理的批判ではなくただの悪口や誹謗中傷」に類した、「加害者性」を指摘する批判も数多く向けられている。

「被害者性」は尊重されるべきだが、他者を叩く棍棒にしてはならない。その暴力に吊るし上げられる関係者側の「傷付き」「トラウマ」も同様に、断じて軽視されるべきではないからだ。

 しかし残念ながら、今回の騒動には新たな兆候が見られる。「性的である」との個人的主観から企業と公共の表現、その表現者、さらに何ら関係無いコミュニケーションをとった別の企業にまで「キャンセル」や誹謗中傷を堂々と仕掛けた一方で、「どこが性的なのか分からないから教えてという要求自体が、相手に性的な言動を指し向ける暴力」などと疑問や議論の余地さえ一切許さないアンフェアな擁護もあった。

 これは「不利益と不快を感じさせられたら全て差別」「差別か否かというのは被差別者しか分からない」という、いわゆる部落解放運動における「朝田理論#」とも類似する。

何者かが「弱者」「被害者」と恣意的に認め贔屓する特定の個人や集団の体験にある種の特権的な権威を与え、民主主義社会の自由と平等、公正を毀損しかねない。

 また、一連の騒動の発生・拡大の状況は、現代の情報社会において、エコーチェンバー的な感情の共鳴と断片的な情報拡散がいかにして議論の多様性を奪い、単一の価値観を絶対視する土壌を作り出しているかを如実に示しているとも言える。言い換えれば、「一部の人々によって恣意・独善的な「正しさ」と「免罪符」が次々と創られ、社会で既成事実化されている」実態が可視化されたとも言えるだろう。林 智裕 3/3yahoonews>

 

 

#朝田理論への反駁

<松沢呉一「差別された者にしか痛みはわからない」といった言葉はずいぶん出てますよね。これは差別された者は間違いをしないっていう前提で成立する話じゃないですか。これに対して、抗議された側は、反論のしようがないわけです。つまり、議論を拒絶することでしかないんです。

この発想は、差別されたと思った人は「被差別者」というグループに属し、彼らが差別した側と見なした人は「差別者」というグループに属し、差別という事象を判定する権限は「被差別者」のグループにしかないということですから、実は差別の構造の逆転なんです。どのグループに属するかの属性だけで、その発言が決定されてしまうんですから。

 

〜「論理学的には、朝田理論は対人論証と呼ばれる詭弁の一形態である。何故なら朝田理論は、言った人間の属性(この場合は部落民か否か)を持って命題の正誤を判断しているからであり、もしこれが正しいとすれば全く同じ言動であっても言っている人によって正しい間違いが変化してしまうことになってしまうことになる。」Wikipedia>

 

 

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