北口榛花選手、カステラ食べながら、金メダル。
オリンピックも、終盤。
◯選ばれることでの矜持とノブレスオブリージュ
かつて、公に意見を発信するときには、
限られた人が限られたメディア媒体を使ってしか
できませんでした。
そのときは、本人だけではなく、
それをチェックするエディターが
判断しました。
おのずと自分の好み、感情というのは、
判断とは、分けられていたはずです。
自分が共感できず反感さえ覚えても、
社会で必要で価値ある見解、
あるいは、社会に問うべき意見と思えば、
エディターは発信したのです。
いや、総じて、社会で公的な職務に就く人には、
そうした倫理観があったわけです。
いわゆるノブレスオブリージュ#です。
一方で、芸術家は、その信念において作品をつくり、
世に出そうとしたのです。
芸術家というとややこしいので、作家や映画監督、ジャーナリストと
置き換えてもよいです。
そして、それらを選抜する、叡智#での精査の力、
それが、メデイアの力でもあったのです。
見識や常識など踏まえたうえでのことです。
日本においては、この、どちらの質も急速に劣化してしまった。
平成で内にこもり、令和で破綻が表立ってきたように感じます。
#ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige )
<高い社会的地位には義務が伴うことを意味するフランス語「nobless」で、「高貴さ」、
「oblige」は「(義務を)強制する」
この言葉自体は1808年のピエール=マルク=ガストン・ド・レヴィの記述「noblesse oblige」を発端とし、1836年のオノレ・ド・バルザック『谷間の百合』で広く知れ渡る。
英語では、ファニー・ケンブルが、1837年の手紙に「確かに、『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族はより多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である
最近では、富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に用いられる。
「ノブレス・オブリージュ」は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。法的な義務ではないため、為さなかったことによる法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われたりすることもある。
アメリカ合衆国では、セレブリティや名士が、ボランティア活動や寄付をすることは一般的なことである。これは企業の社会的責任遂行(CSR)にも通じる。
日本においても、第二次世界大戦前の皇族や王公族の男子は、より率先して日本軍の軍務(近衛師団など)に就くことになっていた。特に北白川宮家は三代にわたり戦死や陣没で死亡している。(Wikipedia編纂)>
#叡智と英知
「英知」が「物事を理解し、優れた知恵」
「叡智」は「物事を深く見通してわきまえ、明らかにする」
つまり、「叡智」は「英知」よりも、本質を見抜く力に裏打ちされた知恵。