男子バスケットボール、対仏戦、惜しかったですね。
4点差の第4クォーターの攻防で延長で、また4点差、実力なんですね。
< パリ五輪で、92年ぶりのメダル獲得となった総合馬術団体。
総合馬術団体では、馬場馬術競技・クロスカントリー競技・障害馬術競技の3種目を同一人馬のコンビネーションで3日間をかけて行う。経験がものをいう競技で、選手自ら「初老ジャパン」と名乗る平均年齢41・5歳。
日本としては1932年ロサンゼルス五輪で優勝したバロン西こと、西竹一以来、92年ぶり2個目のメダル。
馬にもメダルが与えられ、メダルプレゼンターは自身も馬術で五輪出場経験を持つ英国のアン王女。その後は、選手が馬に乗って堂々のウイニングラン。>
経験がものをいうのと、動物と一緒でという唯一の競技です。
私は、小学校の頃に、バロン西と硫黄島の話を聞いたことがありました。
92年ぶりのメダルとともに、何十年ぶりかに名前を耳にして調べてみました。
やはり戦争に負けるということは、人間のなかの何か大切なものを何かしら失わせてしまうのではないかと思うのです。もちろん、それ以上に得るものもあるのでしょうが、、。
日本の場合、アメリカに洗脳されたまま、きちんと敗戦を総括していないから、
そのあいまいさが、人間をも中途半端にしてしまったのでしょうか。
私が尊敬する人たちは、先日の白洲夫妻など、戦前生まれまでが、ほとんどです。
今の子供たちも、アイドル、俳優、スポーツ選手や漫画家など以外、
政財界などに見出せるのでしょうか。
それにしても、爵位のあった時代、
皇族、華族、貴族、そういう高貴な存在は、
やはり、人間社会に必要なのでしょう。
それは、生まれだけでなく、むしろ育ちによって形成されます。
天皇制まで、あいまいにしたままの日本、
愛子天皇でなければ、もはや、皇室の存亡も問われることでしょう。
#西 竹一
日本の陸軍軍人、華族。爵位は男爵。愛称はバロン西(Baron Nishi)
1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。
帝国陸軍将校として騎兵畑を歩んでいたが、後に戦車兵に転科し、第二次世界大戦末期の硫黄島の戦いにおいて、戦車第26連隊長として戦死した
男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区に生まれた。正妻でない母は、出産後、家を出された。父は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物、清の西太后から中国茶の専売権を与えられ、巨万の富を手にした。
欧州へ向かう船内で米国の映画スターダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻と親交を持った。
イタリアで馬ウラヌスとの運命的な出会いを果たす。6,500伊リラで購入。
1932年ロサンゼルスオリンピック、馬術大障害飛越競技にて金メダリストとなる。
人種差別で排斥されていた在米日本人や日系アメリカ人間で人気を集め、上流階級の名士が集まる社交界では「バロン西」と呼ばれ、ロサンゼルス市名誉市民にもなっている。
1930年代当時、時代の流れとして世界の陸軍においては騎兵部隊が削減され、代わって自動車化歩兵部隊や近代的な戦車兵・戦車部隊が新設されていた。
映画『硫黄島からの手紙』では、同じ騎兵出身の栗林忠道陸軍中将(陸軍大将。小笠原方面陸海軍最高指揮官たる小笠原兵団長)と意気投合したことになっているが、実際には確執もあったという。『硫黄島からの手紙』でも描かれた、負傷したアメリカ兵を尋問ののち乏しい医薬品でできるだけの手当てをしたこと、母親からの手紙がその米兵のポケットにあった・・・といったエピソードも証言として大野芳、城山三郎、R.F.ニューカムなどの著作でも触れられている。
アメリカ軍側では、ロサンゼルス五輪の英雄であった西を知る者も多かったため、「バロン西、我々はあなたを失いたくない。出てきなさい」と日本語で幾度となく西に投降を呼びかけたが、この呼びかけに西が応えることはなかった。一方、この呼びかけの逸話は創作の可能性も指摘されている。
西の最期の詳細は不明であるが 1973年のドキュメンタリー映画『硫黄島』では、アメリカ軍の手榴弾で戦死したとしている。
満42歳没。最期と同様に、死亡場所についても複数の説があるが東海岸には西大佐戦死の碑がある。
趣味は乗馬のみならず射撃やカメラ、バイク(ハーレーダビッドソン)自動車(クライスラーの高級輸入車)オープンカーを愛し、ロサンゼルス滞在中はゴールドのパッカードコンバーチブルを現地調達して乗り回していたという。(Wikipedia偏差)fukugen.hateblo.jp