ということで、現実は応用にとんでいて、あそび、ゆるみに溢れているのです。
それに対し、科学はそこから距離をとって、ゆるみがない土俵となります。ですから、科学トレーニングと名づけると、信用度が増すわけでしょう。
しかし、そこに科学とか科学的というものほど、創造性を志向していないともいえます。
◯科学の再現性
科学では、厳密な定義と演繹的な推論を重要視します。特に数値や公式を使って説明するのは、リアルからの距離をとらなくては、ケースバイケースで曖昧になるからです。
演繹的な推論とは、前提から結論へのつながりを明確にすることです。いわば、三段論法です。
一言でいうと、誰がやっても同じ結果にならなくてはいけないのです。そうしたところまで組み立てての再現性が必要です。
◯トレーニングでの再現性
私の使っている意味での「再現性」というのは、二つあります。
一つは、個人おける身体での再現性において、他の人が同じことができるということです。個人の才能や資質、状況などに寄らないということです。フィジカルなトレーニングであれば、誰にでも同じぐらいの結果を出すという意味で、こうした再現性を含んでいるわけです。
クリエイティブなアーティスト性ということになれば、本人の中でもブレイクスルーであり、基礎とはかけ離れていきます。基礎からかけ離れたものを出すために、基礎としての再現性が必要だと捉えてみてもよいでしょう。
病気であれば誰もが同じように治ればよいのですが、創造性とは誰もが同じようにすれば、それは創造にならないわけです。マイナスからゼロに戻すのと、ゼロから1を生み出すのは根本的に違うのです。
もう一つは、本人自身が、確実に何度も一分違わず、全く同じことを何度でも繰り返せる再現性です。芸事では、それが基礎となります。
とはいえ、こうした再現性とは、型ということで鍛錬するとみてもよいでしょう。
もちろん、個々に違う人間の能力に科学を当てはめる時点で、前提が破綻しているのですが、そこまで厳密に考えると、研究もできないので、そこらは、あそび、ゆるみとなるのです。
◯なり切る
うまくいかなかった人たちに対しては、その人がおかれていた状況をでき限り理解しようとして臨むことになります。
例えば、注意力不足が原因のようにみえたとしても、その状況では誰もが注意不足になっていたかもしれません。多くの場合、失敗もまた複合的な要因で生じるからです。そのまえに、うまくいかないとか失敗が、本当にそうだったのから疑うことも必要ですね。