◯日本人の自立心の喪失
一年を振り返ると、安倍内閣では、外交はともかく、内政面では、モリカケ、桜、東北新社など、まるで独裁政権のように、権力を私物化し、身内優遇がはびこりました。
国会もマスコミも私たちも、おかしなこと、間違っていることを正せないどころか、解明さえできなかったわけです。大人として、後世に悪い見本を残し続けています。
「責任は感じている」とか「責任は私にある」とか、責任ということばだけが安易に使えるようになり、岸田政権も受け継いで何度も使用しています。どんどん、言葉の重み、言葉の責任がなくなりました。
無関心とスルー、不正に怒らず諦めたとき、言葉が空回りし出したとき、亡国へと歩み始めます。
◯アメリカからの独立を
アメリカの「自分の国さえよければ良い」というのは、「自分さえよければいい」という個人主義の延長上のあります。それは、自由競争を生み、世界の秩序を乱し続け、アメリカの覇権を守ってきたわけです。自由にあこがれた日本人に、日本人の生き方、いや、人間本来の生き方を忘れさせていきました。
欧米を除くと、世界中が反米に寄っていっています。アメリカが何をしてきたのか、世界は知っているのです。そういうなかで、日本だけはアメリカに忠実を尽くす、そこだけは義理と人情のような、一方的な忠誠心、いや依頼心があるのでしょう。
国土を焼け野原というジェノサイドにあったのに、占領下で余った小麦粉を配ってもらって助かった、その恩にずいぶんと報いてきたのです。その間、マインドコントロールされてきたともいえます。
◯大局観を取り戻す
欧米とイスラムやアラブ、さらに中国、東洋など西洋以外の思想、それらを融合できるのは、日本が最も適しているでしょう。
少なくとも、20世紀には、戦後にもそういうことを考えている人もいた。なのに今はそういうことさえ考えられない、それどころでなくなってきたのが、この20年だったのではないでしょうか。
となると、昭和に戻り、「超国家主義」などから、学び直すのも、よいかもしれません。グローバリズムでもナショナリズムでもない方向として、個人が国家を超える、近代的な自我からの解放の方向において、です。
私は来年、日本の思想を丸山眞男#あたり中心に復習したいと思っています。
天皇制の原理でなく、個人の心がより高いものを目指していたところについて掘り下げていく、今となれば、個人の倫理観に根ざした世界をめざしていくべきでしょう。
◯朝日平吾と山下容疑者
暗殺ということでは、1921年、銀行王、安田善次郎を刺殺したのは、朝日平吾でした。戦後恐慌で、貧富の格差が最大になったときで、米騒動の3年後です。
これが、1ヵ月後、原敬の暗殺に結びつき、その後、5.15事件、2.26事件となるのです。
どうも、今の日本と重なりませんか。
それまでの暗殺は、権力に対する義憤、でも、これは支配者への平等を訴えるものでした。
もし、山上容疑者が、自分の家族の不幸での私怨、旧統一教会だけでなく、今の貧富の問題に対し反旗を広げて行動したのであれば、英雄視され、厄介なことになっていたでしょう。
#丸山眞男(1914年- 1996年)
<日本の政治学者、「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれる。日本政治思想史・近世儒学の研究、超国家主義論、福澤諭吉論ほか。>
<丸山眞男による造語。スープラナショナリズム - 国家を超越した国際組織が権限を担うという概念。具体例は、欧州連合(部分的に政府間主義)、フィクションではあるが、地球連邦。
もう一つは、ウルトラナショナリズム - きわめて尖鋭的なナショナリズム(国家主義)、ファシズムや全体主義などを指すこともある。(Wikipedia抜粋)>