宗教団体への憎悪が、元首相に向かった、元首相には大した憎悪があったわけではないように察せられます。でも他の人を巻き込みたくなかったとか、本人は自分のしたことが、今後、政治や国際関係にどれほどの影響をもたらすかなど考えず、その宗教団体へだけ、目を向けていたのでしょう。
ともあれ、自民党は大勝し、岸田内閣の支持率もあがりました。安倍政権以降、いろんな事件に乗じて、さまざまな法案があたふたと可決され、今後、実施されて、その正体が明かされていくでしょう。
安倍晋三氏の影響力が、これからの日本を動かす、その内実も問えないうちに、死して、国葬、それはともかく、それに乗じて、さらに勢いづいて、とんでもないことにならないのか、心配、いや、そうなりつつあるのです。
憎悪の沈めかたについて、語ります。
◯嫌いの問題
嫌いな人は、嫌いな人として、いるのでは、ありません。
自分が嫌いだと思っている、嫌いだと思う自分がいるわけです。
自分の中に嫌いという思いが出て、嫌いな人がいるわけです。
相手の存在が、自分の嫌いという感情を起こし、
そこに反応してしまうわけです。
その嫌いな人を嫌いではない人や好きな人もいるでしょう。
でも、自分とは相性が合わないと思うわけです。
そういう思いがあると、相手も反応して合わないと感じます。
なおさら、うまくいかなくなるわけです。
◯なくす
自分を、嫌いな人でいたいと思う人は、いないでしょう。
嫌いだと思うような自分をなくすのが、よいということです。
その自分をなくすのが難しければ、自分の中の嫌いという感情を消せばよいのです。
それには、どうして嫌いになったという原因や根拠を探ることもありますが、
逆に理由付けを強化してしまうこともあります。
因果関係で解決するより、そういう過去を消してしまった方が早いでしょう。
◯因果をとる
ここで嫌いということで述べているのは、敵という存在の変形のつもりです。
因果関係を取り去るのは、言語という論理を取り入れて生きてきた人間を否定することでもあります。明日のことを心配しなくなるわけですから、動物として生きることにもなります。
しかし、そこからの妄想や雑念、メンタル的なもので頭が支配され、生きづらくなるくらいであれば、一時、生きていく本能に従っている動物の強さ、その原点に立ち返るとよいでしょう。
嫌いなことや嫌いなものにも応用しましょう。
嫌いなのではなく、嫌いと思っている、思っていただけのことも多いからです。