◯知識と知恵
すぐにウィキペディアなどで調べて、説明が出てくると、そこでじっくり考えることがなくなる人が多くなったように思えます。そこで知識習得だけになっては、意味がありません。それこそ知識は、ITのDBに無限にあるのですから。
これまでだったら、調べるのにたくさんの時間や費用がかかったのですから、それがなくなった分、思考に回すことです。そこから自らの問いや疑問を生じさせ、徹底して考えていくのです。その面倒を省いてはなりません。
自分なりの知恵を出すまでには、忍耐力、注意力の維持が、必要となるでしょう。
考えることで、何が出てくるかよりも、考えるトレーニングや持続力を身に付けるため、それを衰えさせず保持するために、そうした活動を続けていくと考えてみてください。
◯編集と創造
チョムスキーの理論では、文を組み合わせて新しい表現を作っていく、それを理解し反応できるような能力は、人間に生得的に備わっていると言います。人は、もともと、自分で主体的に取り入れ、組み合わせ、発見して、学んでいくようにできていると、私は解釈しています。
そこでは、まず、取り入れたものの編集作業をするのです。
このブログを考えても、そうした編集の上での創造です。他の人があまり思いついてないと思われるコンセプト、私の自分勝手な組み合わせ方や考え方は、カテゴリーのエッセンスに入れてあります。
編集もまた創造になりうるのです。
◯人物の信用
記号、言語というのは、簡単に多くの操作ができます。それに対して、情動というのは、隠し切れない部分があります。ある意味での正直さ、信頼感は、どこかに出てしまうものなのです。
言葉の真偽を定めるため、つまり、人物の信用を定めるために、これまでは、対面して、顔の表情や声、全身からの雰囲気などが使われていたわけです。
コロナ禍においては、膝を突き合わせないことで、zoomでのバーチャル空間での交流が促進されました。つまりバーチャル空間でも顔を見せ合うことに慣れてきました。そうした詰めた空間でのコミュニケーションで、会議や飲み会までできるようになったのです。これは何を意味するのでしょうか。
◯一期一会
顔だけ見ててもわからない、名前と顔が一致しないとか、その人の雰囲気とが伝わらないことで、きちんと知り合ったという感じには、私は、なりません。でも、仕事やビジネスに関しては、そんな感じがあろうがなかろうが進められるようになりました。
昔は、編集者が、原稿を持参し、表紙や写植などもいちいち打ち合わせました。ときにイラストレーターやデザイナーを連れてきました。音楽のプロデュースなどでは、こちらが制作現場まで出向くのも当然でした。
それがメールでのやりとりでできるようになり、イラストや装丁、表紙までも編集者が一人でデザインするようになって、ほとんど顔合わせることもなくなります。音楽でも似たようなものです。
これも、慣れていくきそうです。若い人の方では、そのことでも深い結びつきができていくようになっているのでしょう。ビジネスパートナーとして信頼できる相手ができたり、結婚したりすることもあるようですから。
ただし、何度も、足を運び、顔を合わせてこそ、通じるものがあると思うのです。
冠婚葬祭や墓参のようなもので、手間ひまかけ、その場にその時にいることの重要性は、失われることはありません。
と思うのですが、ね。