fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

表現、創作、スピーチ、雑談のネタの欲しい人、今の自分と社会・世界を結びつけたい人、考えを深めたい人に

想像と表現の自由 欲望とプライバシー 

◯表現の不自由展

「表現の不自由展東京2022」が、東京のくにたち市民芸術小ホールで開催され、無事終わりました。2019年に名古屋市で開かれた、あの「あいちトリエンナーレ」での企画展で問題となった作品や美術展で展示を拒否された作品などが集められました。

国立市のHPに

「施設利用については、内容によりその適否を判断したり、不当な差別的取り扱いがあってはなりません。これは、アームズ・レングス・ルール(誰に対しても同じ腕の長さの距離を置く)と、同じ考え方です」

との見解を公表。

表現と言論の自由は、民主主義の根幹です。

「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(ヴォルテール)

憲法21条の「表現の自由」#を確認しておきましょう。

 

〇自分と関係

自分の身体に対する危害行為は、犯罪になりません。それは考えようによっては不思議なことです。自分の身体は自分だけのものでもないと思うのですが、そこにはいろんな考え方があると思います。これは、自殺や自死に関する考えにも関わってきます。

他人を介在させると、そこには、関係が生じます。他人を支配したいとか殺したいという願望を持つ人はいます。しかし、欲望を持つこととそれを行動に移すことには、大きな境界があります。

 

〇欲望の所在

上野千鶴子氏は、「性欲、性行為、性関係は、厳密に区別されなければならない」と述べています。性欲は、両足の間でなく大脳にありますから、人や文化によって違うのです。

欲望は、個人の内で完結している、となれば、想像力と同様に自由です。

そこから、他の人に、なんらかの言動を伴うと、外的なものとなりますので、そこには、社会のルールや慣習が適用されます。この慣習というのも、定義されているわけではないので厄介なものです。

 

〇想像力

想像力は取り締まれないので、想像力で描かれた作品を取り締まらないとなります。しかし、公にするとなると、ここは、解釈の分かれるところです。

見たくないものを見ない権利は、擁護されるべきです。その上で表現そのものは、取り締まらない方がよいと思われます。

それは、代償行為として社会に貢献する場合もあります。

暴力的な映画を見て、映画館を出て、暴力的になる人よりも、スッキリして帰る人の方が多いのです。

スポーツや娯楽などが、統治者により、民衆の不平不満のガス抜きに利用されてきたことは、歴史上の事実です。残念ながら、もっとも効果的に使われてきたのが、戦争です。

北野武氏は、暴力的な映画を制作することについて、「徹底的にやることによって、現実では真似できないようにしている」というような発言をしていたように覚えています。 

でも、現実は、しばしば、想定を超えることもあります。そのため、制約はあります。

 

〇プライバシー

プライバシーの語源は、ラテン語で「他から分離して、帰属させた」という意味です。公的な権利を剥奪された領域、公が立ち入れない、放置したところとなるわけです。プライバシーを守れるのは、強者ということにもなるのです。

プライベートビーチでは、皆の前で素っ裸でいても、法に反しないのです。しかし、殺人や暴行は、法によって罰せられます。

 

 

#表現の自由は、日本国憲法第21条で認められている国民の権利です。

第1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」

第2項「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」

「知る権利」は、憲法第21条の保障に含まれます。

表現の自由は、他人の利益や権利との関係から制約が存在します。憲法第13条の「公共の福祉」による制限を受けるのです。「プライバシーの権利」「肖像権」「環境権」などの権利を侵害してまで、表現の自由は保障されません。ほかにも、差別表現やヘイトスピーチ、名誉棄損、性表現をめぐる芸術性の問題など、議論が続いています。(参考Wikipedia)