◯映画版「アルキメデスの大戦」(2019/7公開)
不沈戦艦大和を沈めて、日本人を目覚めさせる、
日本の身代わりとする、大和は依代となる、
このようにいたる思考は、以前に角川映画の「男たちの大和」でも見られました。
追い詰められて、そのように考えるようになるのですが、これは、この前、評した「スパイの妻」と同じで、戦前にそこまで見通してしまえるのかというところが腑に落ちませんでした。
日清・日露戦争の勝利の成功体験が神国日本をつくり出し、どこかで大勝利をあげれば、先方が講和に応じて、少しは良い条件で停戦できるだろうとの漠然とした期待になったのでしょうか。最悪のリスクを想定しなかったわけです。
依代という考えは、大義名分なしには敗戦を納得できなかったと思われる人、あるいは、その前に特攻で死にゆく若い兵士には、説得力を持ったことでしょう。
大戦までには、国中で盛り上がって、総力戦に突入したので、国民も戦争責任は政府にあるとも言えず、軍部のせいにして過去を切り捨てるしかなかったのでしょう。冷戦から高度経済成長で、政財界もメディアも国民も、誰もがあいまいにしたままに先に走ったのです。
こうしてみると、自分たちのために自己犠牲を貫いて死んでしまった人たちの思いを受け継いで応えていく。自分たちが死んだ後も、そういったものが受け継がれていくから、死ねる。その受け継がれていくものこそが、ナショナリズムなのかもしれません。
戦争に関わらず、誰もが、社会のため、皆のために働き、戦い、死んでいくものです。
その思いの共有、その物語を歴史として共有することによって、人は、その人生を輝かせるのかもしれません。使いようによっては諸刃の剣です。
それは、今でいうと「鬼滅の刃」の柱として生きて死んだ煉獄杏寿郎の想いでもあり、そうしたストーリーとして、受け継がれてもいるわけです。