fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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情報の権利 著作権

どんな作品も作家1人のものではないといえます。

コピーライト、著作権よりも、くり返しの引用の回数に価値を求めるのは、時代の流れでしょう。アクセス数ですね。価値ある論文もまた引用回数で決まってきます。引用は、原則、無料です。となると、リナックスOSのようにオープンにしていくのが、今後の理想として考えられることです。

 

ハード機器と違い、ソフトはバージョンアップしていきます。もともと不完全なまま、市場に出て、そこでの意見を聞きながら、改良したり方向を絞り込んでいくのです。

そういったものの代表例がクラウドファンディングで開発される商品かもしれません。あるいは、オーダーメイド、個別発注です。

 

文芸作品はどうでしょう。推敲に推敲を重ねたものを発表しても、後で書き直したくなることもあるのではないでしょうか。

ノウハウ、ハウツー書などは、方法を改良していったり、相手によって、時代によって変わっていくところがあります。それが加わって膨大なデータベースとなるわけです。

それは文芸だけでなく、絵画や工芸品、彫刻なども、同じでしょう。やり直しがきかないもの以外は修正できるのです。となると、やり直しのきかないものの価値が上がるように思います。

本人が直すのは許されても他の人が無断で手を入れるのはタブーです。それは、権利のほか、元の作品の意図や感性で貶める可能性があるからです。オマージュしたもの、パロディーとしたものでは、許される場合もあります。しかし、そのことに着想を得た、似たようなものはいくらも再生産され、受け継がれていくわけです。曲などに同じ旋律のものが出てくるのは、やむを得ないことでしょう。だからAIもそれなりのものが作れるようになるわけです。

手塚治虫作品のリニューアル作品?として、浦沢直樹さんの「PLUTO」などもありました。著作権問題をクリアしてのことですが。複数の作品を混ぜ込んでこんいる場合は、ややこしくなります。

 

私のもいろんなところで引用されていますが、許可を求めてきたもの、参考文献として明記されているもの、無断引用などもあります。とは言え、作者本人が読めば大体はわかるものです。

大学の入試試験やその参考書などに許可して、問題に使われることもあります。すると、「作者の意図は次のどれでしょう。」などの設問への答えが、自分の考えと違うこともあり、いいのかなと思うことも度々です。いや、設問におかしな意図を感じることが多いのです。

 

誰でも、自論の前後は、状況説明や先達の論を参考、引用して根拠づけて仕上げています。私のも少なくともその1割はオリジナリティーの発想のつもりですが、読む人にそこが分かるかどうかは定かではありません。論だけでなく、組み立て方や、切り込み方、編集やデザインのオリジナリティーもあるでしょう。ただ、それらがないのなら本来の価値はないという自覚は持っているつもりです。

しかし、それらが、ないものなどがあるのだろうかと、はた考えるわけです。