fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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違いと差別 論じること

いつも思うのは、自分の考えていることなど、大体、偏っていて、自分の考えなどはないに等しいほど、状況に流されているようなものだな、ということです。自分があたりまえのように思うことは書けないので、あたりまえではないことを書こうとしますが、それはあたりまえのことだったりする、でも、あたりまえのことなどないし、と立場自体が揺らぐ、ゆえに、論じられないことが多いのです。論じているように見えても、その実、ただそれを知らない人に知っている状況を伝えているだけだったりしているわけです。

 

人も成長し、世慣れてくると、いろんな立場からみることができるようになるものです。人にもよりますが、世界中を旅したり、半世紀以上生きて、3世代ほどに接していくと、地球も狭くなり、歴史的人物も身近に思えるようになります。

自分と異なる立場の人がいて、その言い分にも理があることが、平等と同じように自明となり、あたりまえに思えてくるのです。となると、どう論ずるのやら。

 

考えてみるに、つい最近まで、こういう考えは、あたりまえではなかったのです。自分の方からものをみても、相手の立場からものを考えることなどしなかったのです。

人間、そのように思ったり言ったりしていても、本当にそれにふさわしい行動をとるまでには、なかなかいたらないものです。

思いもしない時代、思っても言わない時代、言ってもそうしない時代が続いてきました。今も続いているのです。

 

違いに気づくようになって、差別は解消するのでなく、むしろあらわになることの方が多いのでしょう。子供も知恵がつくと違いを見出していきます。

問題は、その違いには優劣がない、対等だから相手を尊重して認めなくてはならないという方に意識がいくかです。それは、その違いに優劣をつけた方が都合のよい人たち、優に振り分けられる側の人には、久しく無視されていくのです。

 

その一人ひとりの考え方がまとまって、政治となるわけです。政治は、利害調整の手段と化し、対立をあおります。権力がお金、ビジネスに絡むからです。

そしてまた、そこから、個人の考え方を歪めてしまい、都合のよいところに権力としてまとまっていくのです。

いじめの問題一つ見ても、差別は、簡単にはなくならないことがわかります。

 

本日は、いや、本日も悪文の見本のようになりました。いつか直したいと思います。