3·11の震災以来の震度5以上の地震が都内にもきました。大地震なのか津波なのか、山の噴火なのか分かりませんが、常に備えていく覚悟は持っておいた方がよいでしょう。
岸田新総裁も大変な立場で、もはや、どこまで自分を出せるかが問われているのでしょう。こういうときこそ、過去の因習から逃れ、自分が思うままに訴えられるかが問われるのでしょう。そうでなく、それこそ大敗しないと、聞くことがリーダーの役割でないことに気づかないのでしょうか。菅総理に続いて、また芸人泣かせ、ものまねのしにくい総裁です
やむなくそうなったとき、あるいは、そうせざるをえなかったとき、人がどんな行動をとったのかは、ケーススタディとして貴重です。自分についてもですが、他者の行動では、多彩に、より深刻なケースで知ることができるでしょう。特に非常事態において、です。
映画や演劇、ドラマ番組は、それをヴィジュアルにわかりやすく教えてくれます。書物も貴重なサンプルです。ドキュメンタリー、フィクションでも、物語、ノンフィクションでも、それぞれのよさがあります。
冤罪とマスコミ報道の行き過ぎをテーマとする映画「望み」を見ました。
日本人は、メディアの報道の仕方もあって、容疑者の段階で犯人とほぼ決めつけます。検察、警察を信じて、誰もがわかりやすく納得して安心したいために、早く、悪役をつくり、排除したがるのです。そのために闇も深く、とてもフェアと思えないことも少なくなさそうです。また、善と悪という単純な二項対立をつくり出さないようにすることが大切です。
報道を鵜呑みにしがちな私たちも、報道に無関心な私たちも、冤罪をつくるのに加担しているのです。何事であれ、検証をしっかりとすることです。そうでないと、次に、無意識の加害者になりかねません。
近く、ジョニーデップ主演のMINAMATAを観に行きます。水俣とは、事実関係で異なるともいわれていますが、だからこそ、学べることもあるでしょう。
表現者がどう伝えたかったのか、から、興味を持ち、事実を検証するアプローチもあるでしょう。主人公が外国人のカメラマンという、これまた表現者。
ですが、視聴率競争で作られるコンテンツは、思考を単純化させ、質よりも量だけに価値があるかのように、知らないうちに偏向させていきます。テレビで養われたノウハウが今やYouTuberのなかで、さらに膨張しているのです。
人間のもつ複雑さを覆ってしまうと、ストレートに間違った方向に突進しかねません。
そういう時代の到来を防がなくてはなりません。