17世紀の科学革命は、数字、観察と実験を重視しました。つまり、知識の実生活への活用をもたらしたのです。それはアリストテレス以来の自然哲学からの離脱でした。たとえば、ガレノスの生理学説から解剖学者ヴェサリウス「ファブリカ」(1543年)、ハーヴェイ「血液循環説」とつながります。
もとより宗教の中で制約されてきたものが、科学、知識、論理、理性を中心とするように、変革されてきたのです。宗教にとらわれない新しい芸術や文化も誕生しました。
しかし、そうしたものがどんどんと細分化され極小化されると全体が見えなくなってきます。近視眼的に自分しか見えなくなってきてしまうのです。
プライベートを重視するあまり、コミニケーションがわずらわしくなって、コミュニティーが崩壊していくようなものです。私個人と公、共同コミュニティーの関係は、常に両方があってこそうまく機能するのです。包み込んでいたのは、宗教、あるいは、信仰だったのです。
その科学革命以後、技術革新が止まることはありません。多分、ひと昔前の100年分の革新が、今は1日の中で起きていると思われます。それをどのようにコントロールするかという点で、もはや人間の知性は追いついていかないのです。それをAIに任せるとどうなるのか、となると、さらに不安なわけです。
遺伝子工学も人間が倫理的にストップをかけています。核ミサイルも、危うく反射的に発射しそうになったのを人間が良心で止めたいきさつがあったはずです。
A lは、その判断側の能力として使われるのですから、どうなるのでしょう。人間離れした判断で人間を滅ぼすのか、人間らしい判断で大失敗するのか。
今の人間社会は、昔の賢者や偉人たちを超えるような人材、あるいは統治体制を見出しにくい状況に思うからです。進歩をゆっくりにする知恵は、環境問題でも突きつけられてきました。
しかし、情報化社会は、知らなければよい悪魔の蜜を振り撒いてしまうのです。皆でワクチン打つ、でも、皆で電気を切れるでしょうか。