fukugen(福言):出会い気づき変わるためのヒント

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「動物愛護と内なるDaiGo」

日本では動物の愛護は遅れています。動植物に親しむことによって、私たちは命の大切さを学んでいくのです。その命は、人の命につながります。見知らぬ人の命につながります。ところが、自分のペットの命は大事、で留まり、学ばない人もいるのです。
人より寿命の短いペットなどを看取り、悲しむことで、どの命も大切なのだと幼い子は学んでいきます。あまり会うことのない祖父母などの死よりも身に染みて感じるからです。

サラブレッドの好きな友人が言っていました。馬の一生は7年、育って引退し死んでいくのを何回も見る、そしてその血を引く子供や孫、と代々の馬の活躍を見る、人の70年の人生を何回も体験できるのだと。きっと多くのことを教えてくれたのでしょう。いや学びとったのです。
 
さて、
「自分の母が生活保護を受けながら自分たちを育てたとしたら」そして自分の言葉を聞いたとしたら「もちろん許せないだろうし相手を殺したいほど憎むだろう」
DaiGoさんの謝罪でのこの例えは、正直な人だなとも思うのですが、死んだ母親まで身近に引き寄せなければ、感じられない、表現力の問題なのか、アンバランスな欠点なのか、意図があるのか、わかりかねます。
 
世の中には、ホームレスを、あるいは生活保護者を、実質的に、実力行使して生きにくくしている人はたくさんいます。差別という自覚もない、あるいは、その感覚を鈍らせて働くしかない人もいます。まさに発言DaiGo以上の実践DaiGoがいます。役所にもサラリーマンにも社会的に立派な地位の人にもいます。たとえば、外国人技能実習生の扱われかたもひどいものでしょう。ずっと黙認、無関心、無視で済まされているのです。日本の構造的な問題でもあるのですが。
 
だからこそ、DaiGoさんは、俺はこうだ(少なからず皆もそうだろう)といい、皆は、それ、言っちゃだめだろうと反発するのでしょう。こうした問題に関心を持ち、日夜、苦労して奉仕している人もいます。そういう人も皆が善人ではありませんが。多くの人は無関心、無関係という、罪人です。マリアのように生きられる人は、希少です。
 
私も含めて、自分のなかに何割か、DaiGoを抱えているようなものです。DaiGoの本音に寄り添ってしまう気持ちが全くないと言い切れるでしょうか。なぜなら、それもまた自分が生きる知恵であり、ふつうの感情なのです。葛藤してばかりいられない事情がそれぞれあるのです。でも、そこを肯定して公言してはならないのです。
 
こうして彼らのために何かしたかというと、あなたも私も、ですが、そのまま済ましているでしょう。DaiGoさんは寄付をするそうです。だからよいわけでは全くないのですが。批判で終わるのでなく、自分の内面を見つめ、どうすればよいのかを考え続け、何か一つずつでも変えていきましょう。